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お昼の休憩時間。を褒めてもらった

 お昼の休憩時間。がすごいと言ったらかしこい子に褒めてもらったので嬉しかったと言ったらどこがすごいのか気になるといってもらったので嬉しかった*1のでどこがすごいか言う。
 ちゃんと言える自信はぜんぜんないけど勘のいい子ならわかってくれると信じて書く。矮小化だけはしないゾ。

 背景説明。
 これはシングル曲とかではなくって、『第?成長期』というやばい感じのタイトルの2ndアルバム(2005年)のアルバム曲(編曲は初期ベリを支えていて最近また戻ってきてる平田祥一郎)。
 じゃあこのビデオは何なのかというと、berryz工房2006年夏のツアー、『夏夏!~あなたを好きになる三原則~』において、VTRコーナーとしてステージのスクリーンに映されたもの。だからちょっと安っぽいと言えば安っぽく、また現場で初見のファンだったのだろうか、曲と関係なく映された映像の可愛さに感極まって「桃子ー!」などと怒ったように叫んだり、箒をお腹で支えて走るという徳永千奈美のパフォーマンスに歓声が起きたりする。

 この曲の歌詞は一人称を省いた一人称での語りになっていて、さらに別の学校に通う彼氏の「あなた」に向かっての語りにもなってる。
 でもよくあるようにどこかわからない場所からあなたに向けてただテーマとなる感情、寂しいだとか好きだとかをモノローグ的に展開するような歌詞じゃあなくって、語りが行われてる場の感覚、語り手が通う学校の昼休み、おそらく教室から(ビデオとは矛盾するけど、歌詞冒頭で「窓から いつも変わりのない 景色が 見えるけど」と視点人物をインプライする形で場が設定されてる)語られてるんだなあという感がとても強い。冒頭と間に挟まる恥ずかしくなるような会話(むろんファンはこの会話聴くだけで感動に頬を濡らすわけだがさしあたりそれは措く)もその場の感じを強めるのにだいじな役目してる。

 さてこの会話は、声や喋り方から簡単に誰が誰かを判別できるファンが聴く限りにおいて、各台詞を受け持つ女の子がひとりひとり立体的に立ち上がるものになってるわけで、でもしかし歌自体は全員で歌うため、歌詞本体の語り手は奇妙な匿名性をもつ。結果、いかにも打ち解け合った会話をしている愛しい友人たちが、同時にその中の誰をとっても、小学生なりにその背後に今いるこの場から離れた個人性をもってるような感が生まれる。後述するが、だからといっていまここで展開されている昼休みの場の感覚が消えるわけではなくって、教室-窓-町(坂、丘)-あなたの学校、といった線にそって妙な広がりが生まれる。冒頭でさっそく導入される「窓」は、今ここの場に、それを包む広い日常が浸透していくような効果をしっかり準備してる。偉い。

 冒頭からクラスメイトより先に彼が登場し、遅れて登場するクラスメイトにはさらに「割と気心合う」などと留保付きの仲良しさが強調される。そこでのたわいもない会話はすべて「彼氏に繋げて考え」られてしまうわけで、語り手の意識は(少なくとも語り手が思っている限りにおいて)今自分を取り囲む友人との会話でなく、窓の向こうに想像される「あなた」に占められてる。
 でもここでおもしろいのが、意識はだからといって「あなた」のところへ透明に飛んで行ったりせずに、「この町は意外と大きくって 坂が多いけれど あなたの学校もある町よ」という形で、「あなた」に語りかけつつ、あなたとの間に不透明な障害としてある場所が、「坂が多い」みたいなふうな具体性を持って意識に入ってきちゃうみたいなこと。でさらに、「あなたの学校も」っていうふうに、今ここで自分たちが会話してる学校「も」、あなたの学校も、坂も含んで広がる「いつもかわりのない」町っていう場所が、今ここで会話しながら意識をふと占めて、実際ちょっとテンション高めに歌われることになる。
 何の説明もされず絶対的にある彼氏にくらべ、割と気心があったりする相対的な評価が与えられる今ここから見て、窓は、彼の学校へと繋がる透明な枠であると同時に、やはり今ここでお昼ごはんが食べられている学校に属するひとつの不透明な具体物でもあることがわかってくる。

 だから1番でまず見えてくるのは、この歌詞において、無粋に整理すると2つの対立があるってこと。語られる内容のレベルにおいては、今ここのいつも変わりがなく、相対的な評価が与えられる友人のいる教室―愛され「待ち遠し」がられたりする特別な彼がいる遠くの教室、という対立がひとつ。それから語り自体のレベルにおいては、今ここで彼のことを考え彼へと語りかける透明さを目指す語りの志向―語りの中に入ってきてしまう不透明性、夾雑物としての具体てきなあれこれ、という対立がもうひとつ。
 それで、語りはそのまま不明瞭な小学生女子の意識であるので、それが語りの中で整理されず浸透し合っちゃう。「みんななんかゴメン… お昼の時間の会話の大半 彼氏に繋げて考えちゃう」なんてサビのフレーズは、会話が彼氏に繋がってしまうというふうに彼氏への志向に浸透されつつ、同時にそれがまわりのみんなに対してちょっと優越感や罪悪感をもつべきものだとして意識されるという点では彼氏への志向が具体的な夾雑物に浸透されちゃう。ようするに、いままで言ってきた浸透ってのは、2つのレベルの対立に関して、その対立軸自体が浸透しあうというプロセスにそって、各対立の2項が浸透してるっていうふうな意識の、語りのダイナミズムが動くような形で機能してるとおもう。
 そういった相互浸透があるから、「この町」っていうふうな言い方が出てくることからわかるように、今「この」具体的で平板な教室みたいな場所から語ることが、そのまま「この」町っていう、各具体物に満ちて、もう絶対的な魅力と相対的な評価とを切り離せないようなかたちで価値付けられた日常の広がりを語ることになってくる。


 2番の歌詞もそういった感じを与えてくるもので、また遠く離れた彼への連絡方法が話題になる。「ふたりで決めたルール」として電話で話すということが語られた直後、今この昼休みにおいては、「電話する子もいる」が、「うちら流」ではそういったことはおこらない、というふうになってる。すでに上でみた2つの対立に沿って整理すると、だから彼氏とふたりで決めた「ルール」と、うちらの「流」が対立してるのだし、またさらに、彼へとつながってゆく電話を語ることが、いまこの昼休みの教室で自分を囲むものを語ることと対立してる。そのあとに続く「それでもたまに声聞きたい あなたの優しい声」においては、またもや絶対的な彼の価値が、「たまに」っていう相対性によって浸透されたものとして、このお昼休みの感情のひとつとしてでてくる。
 でサビに入って、「この丘の上で待ち合わせる ちょうど中間の場所」なんてのは、まず「ちょうど中間」ってのがなにとなにとの説明ということでもなく出てきて、まあもちろんいまの教室と彼の学校との中間なんだけど、整理されない意識の流れふうにして出てくることで、ここ教室と彼の学校を同時に意識するような感じみえる。でもって、「この丘の上で」に至ってはかなり変なことが起こってて、「この」っていうので時間と場所が変わって丘から語ってるのかな?とおもいきや、「今からちょっと待ち遠しの 友達には 悟られまい だけど 顔に出ちゃう」というふうにして、やっぱり語ってるのはお昼の教室だってことがわかる。だから明らかに自分がいるとこでない、意識がごちゃごちゃして彼も教室もがごちゃまぜに混ざった意識上の場所が、「ここ」として名指されてて、さらにその「丘」の唐突な具体性は、そういったぐちゃぐちゃの意識がもういちど具体性に満ちた広がりを持った日常の町の中に登録されるみたいな運動かんじる。
 サビ終わり、「お弁当しながら 会話がおかず いろいろ訊かれる順番 本日は私らしい…」では、もはや本来彼氏への志向に浸透されてたものだったはずの友人たちとの会話が全面に出てきてて、それと同時に彼氏が会話の内容として使われて、恥ずかしいなあとかでもちょっと喋っちゃいたいなあとかそういう友人との日常会話の中の感情を生むものになってる。友人たちより大事な彼氏に向かって語ってたはずが、語るなかでいろいろの具体物に浸透されて、やっぱりあくまでも相対的な「気さく」「几帳面」「マイペースで あってる」とかいう評価でしかない友人たちとの会話が、話題としては彼氏に浸透されつつも意識のうえで優勢になってる。

 言うのもヤボだけど、結局上で見てきた日常ってのは、色々の浸透の先に意識にでてくる全部のひろがりのことで、具体的で相対的なものも、特別で超越てきなものも、あわせてひっくるめたようなものになってる。超とうとい。
 さらにそれがやっぱりどこまでも具体的なお弁当の空間であるとか丘であるとかに登記されるふうにして語られるのがやっぱり大事で、全部ひっくるめた一種抽象的な日常は、それを構成する一部である限られた具体物のなかでのみ発動するみたいなことになってる。世界の構造がかっちりと組み上げられることによって構造の一項目の意味が見えるとき、構造の1項目の意味が逆にそのまま全体の構造を内示するようにして見えてくるみたいな世界!の感じある。ラストで「限りある」学生時代のタイムカプセルを埋める「<この>丘」、っていうふうな言い方は、「この」のおかしな使い方で、抽象的な日常と具体的な日常がかぶるものなのだし、時間的空間的に限られたある瞬間が、同じく限られたタイムカプセル*2としてぼやーっと広がる抽象的日常空間の中に埋められることによって、逆にそのぼやーっとした抽象的日常空間を限られた具体物の属性の一つとして保存するようなパゥワーをもつみたいなまたあらたな相互浸透のきわみとなってるのであった。

<完>




 おまけ

 先日譜久村聖がラジオで
 「ハロー以外のアイドルにどうしても興味が持てなかった。でもそれじゃだめだと思って最近他のアイドルさんの歌を聴いたり歌詞を読んだりしてみた。それでやっぱりあらためて、ハローの曲は歌詞がいいんだってことがわかった。他のアイドルの曲ではテーマがひとつ決まってて、それに沿って書いてある感じがするんだけど、ハローの曲はテーマがいっぱいあるっていうか、裏テーマがあるっていうか、深みがある。」
みたいなことを言っていて、ハローについてはなかなか語りきれないもどかしさを持ちながら喋ってる感じだったんだけど、でもかえってよかった。

 一つのテーマ、寂しいとか大好きとかに沿って書かれると、その歌詞の中でどんな細かいことが書かれてもそのテーマを効果的に演出装飾するレトリックとしてしか機能しないんだけど、ハローの曲の歌詞では、頻繁にあるテーマに沿って歌われてるはずが、その歌っていく歌詞の中でだんだん具体物に侵食されていって、結果どんな感覚を歌ってるとも言えないよくわからない、誰が得するのかもよくわからない感覚を歌うみたいなふうになってることがおおいようにおもう。複数のテーマっていうのもだから不正確な感じで、諸テーマが打ち消し合ったり絡み合ったりして、もはやどれも主題として扱えないようになるようなきがする。
 もちろんそれってよい小説とかにとっては前提条件なんじゃないかっていう気がするんだけど。

 でおどろくべきことは、まあ過去一度も少女だったこともないつんくが、抽象的なテーマに沿って書いてるうちに具体的なあれこれに侵食されていって、現在進行形で少女であったとしても自分が感じてると気づいてないような感覚を描いてるような、プルーストばりの歌詞を書いてしまうことにまずはあるんだけど、いっそう不思議なのは、作品化されたようなロマンティックな感情の高まりではなくって、相対化された謎の日常的な感覚を具体的に、正確に書くことで作品が成立するっていうなかば理不尽な思い込みにあるんじゃないかっていう気がする。
 ここで見られてる日常性ってのはやっぱり普段ひとがなにもせずとも享受できるような日常性じゃなくって、ちょっと違った価値を持った日常性なんだろうなって気もする。
 根本的に一瞬の非日常への高まりを目指してくようなロック音楽にくらべてよっぽど偉いんじゃないかってことを理由よくわからないけど思ってる。

*1:仏文でフローベールをやってる映画、音楽が好きな友人。「…小説にしたいね」と言ってくれたのでした。その後1月ほど経つと熊井ちゃんオタになってた

*2:もちろん、タイムカプセルって語によって、今ここの一瞬が過ぎ去ってしまうかけがえの無いものっていう感が出てくるのは当然で、みな感動すると思うんだけど、それはやっぱり今ここをちゃんと書いたあとに出さなくっちゃズルって感じがする。今ここを大事にして初めて、その瞬間を過ぎ去ってしまうものとして味わうのに幾分の倫理性がでてくる。