うるさいこというの大好きおじさんへの内ゲバと徳永さんのカワイさに関する問題

 ハロメン(に限らず女の子)に対して、「なにかはやりのものを/変わったものをかわいいと言うのは、そう言っている自分がかわいいと思っているだけでしょ」、という謎の認定をくだすのが大好きおじさんというのはいつもどこかにいます。おじさんと言いますが、これは実際の性別や年齢の問題ではなく、女の子やアイドルに向かうときの心のありようの話です。メンバーが何か「大人っぽい」ことをするのに対しての「大人ぶってる自分が好きなだけでしょ」などなど、バリエーションは無数にあり、「流行りのもの」をかわいいというのもダメ、「変わったもの」をかわいいというのもだめ、というような冒頭の例からもわかるように、何をかわいいと言っても(何を選んでも)手詰まりということになる論理なわけです。いつもチョキで負けるじゃんけんのようなものです。
 つまりここで問題になるのは、そもそもこの手のうるさいことを言うの大好きおじさんにとっては、メンバーが何かをかわいいと選ぶ時点で、かわいくない、ということになるのではないかということです。
 女はかわいいと男に思われる受動的な存在であって、何かをかわいいと選ぶ主体的な存在ではない、というわけです。
 メイクやなんやかなに関して、男ウケが悪いんだよこういうのはバカだなあとかいう人も同様で、そんなことはわかりきった上でメンバーがメイクを選んでいるということをそもそも認めることができていないのです。もっとかわいいメイクの姿があるのに、とぶつぶつ文句をこぼしながらお金を払う権利がないとまでは全く言うつもりはありませんが、個人的にそういう態度はすこし気持ちが悪いと思うし、またそういう態度で享受できるかわいさは、結局お人形さんのかわいさや、あるいは安全にキャラクター化されたもののかわいさでしかないのではないか、とおもいます(たとえば、「タケ坊はイケメンが好きだからなあ」と過剰に何度も口にすることには、竹内さんがイケメンが好きだというごく当たり前のことを、無理やり面白おかしくキャラクター化して、自らの男性性の優位にとって安全なものになるまでなだめてやろうという思惑があるのではないでしょうか)。
 このように何かをメンバーが選ぶことをかわいいと思えないおじさんたちが、では、寛大にも認めてやってくださっているかわいいメンバーの趣味行動とはどういうことになるのでしょうか。
 それは例えば、家族と一緒になにかをする、とか、過剰なまでに「普通」な行動なのではないでしょうか。あるいは、徳永さんのように、ディズニー映画が好きだといった、過剰なまでに「普通」な趣味なのではないでしょうか。「子供のような」行動、趣味、と言いかえれば、お人形をかわいがるおじさんの心性と子供を遠くからかわいいというおじさんの心性とがほとんど同じだというような話にも繋がるでしょう。家族の中(管理下、と言うと強すぎるかもしれません)に置いて、上から、自分の「男性的」な優位は揺るがされずに、箱庭的に楽しめるというわけです。

 さて、自分は、ここで例に挙げた、徳永さんがディズニーアニメが好きだということが、ものすごく好きです。
 また最近、徳永さんに関しての、「正月に家族で川原に行って凧揚げしたり 妹のためにツタヤでチャイルドプレイを借りて一緒に見たり うまく言えないがそういうところがカワイイ」という書き込みを見て深く頷いたのですが、これは先に例に挙げた、「家族と一緒になにかをする」のところに当てはまります。

 つまり、前半で色々と偉そうに、アイドルを観るときの偉そうなおじさん的心性について文句を言ってまいりましたが、これは自らの中にあるおじさん性への不安から来たものなのであります。

 しかしこうして自分を内ゲバしてみても、やはり、徳永さんがディズニーが好きなことや、「正月に家族で川原に行って凧揚げしたあり 妹のためにツタヤでチャイルドプレイを借りて一緒に見たり」することに対する、自分(やこの書き込みをした人)のカワイイと思う気持ちには、除菌済みの安心してカワイイと思えるものだけをお人形さん的にかわいがる以上の何がが、かならずあるはずなのだ、とも思います。
 逆側から言い換えれば、徳永さんがディズニーが好きだということ、アメリカが、「チャイルドプレイ」が好きだということには、間違いなく、彼女の主体的な個性があり、徳永さんをカワイイと言うときには、間違いなくそういったところを認めた上でカワイイと思っているのだということです。
 上の書き込みの中での、「うまく言えないがそういうところがカワイイ」ということの、「うまく言えないが」ということを大事に大事にしてゆかねばならないような気がします。うまく言えないが、カワイイ具体例はたくさん出てきて、ひとつひとつにその人固有のカワイさがある、というときにこそ、人はとりつかれたようにそのカワイさに夢中になります。こうこうという具体例があるので、こうこうという理由で、かわいい、と言えてしまう時には、それはそのカワイイと言う人のなかで整理が着いて飼いならされた、除菌済みのカワイさになってしまっているのでは、とさえ思います。
何かをかわいくない、と上から目線で判断するときの判断は単純でつまらないものであり、逆に何かをかわいい、と思うときの気持ちは、どこか割り切れないところを孕んだものであり続ける、といったような話かもしれません。