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「『アナと雪の女王』、「Let it go」における、かき乱された性」翻訳

菅谷梨沙子さんがアナと雪の女王のLet it goを歌ったということに心動かされ、自分の心の中ですこし関連性のある英語記事を翻訳しました。
The Scrambled Sexuality of 'Frozen's "Let It Go" | Criticwire http://blogs.indiewire.com/criticwire/frozen-let-it-go-idina-menzel-demi-lovato#.UzxSv0yHHDB.twitter
とくに最後の箇所――髪を紫に染めた女の子に関するところです。
(個人的には、この記事は、エルサの「性」の問題とはじつに同性愛的な性指向なのだ、と感づいていながら、それをはっきりとは書かずに示唆にとどめておくことで、まずは10代女子に広く呼びかける感動的なよくできた記事になっているように思います。この映画がレズビアン、ゲイ映画であるという読解に関してはそのうち自分で書くかもしれません)

 

アナと雪の女王』、「Let it go」における、かき乱された性

 

 『アナと雪の女王』の前売り収入は、ポスターの通り、主役たちを埋め尽くしてしまうほどだ。愛らしい雪だるまのオラフが自分の頭を空中に突き出す一方で、女性主人公のアナは喉元まで雪に埋もれている。しかし、世界中で10億ドルを叩きだす大人気映画ではあるが、この映画には秘密がある。これは、女の子たちの映画なのだ。(この映画をダメにするやつが前方に見えるが、しかし、来たれ)

 

もちろん、この映画を愛する男の子たちもいるだろう――また大人の男性も同様に愛するのだろう――しかし、私は先週この映画の歌詞字幕版を観て理解したのだが、「雪だるま作ろう」とお願いする声は、女の子たちのものなのだ(彼女たちの父親のひとりが、彼の4歳の娘が学校に行っている間にこっそりとサウンドトラックに聴き入るということはあるだろうが――閑話休題)。ディズニー寓話の論理に沿えば、アナとエルサは映画のラストまでにそれぞれ彼女たちのロマンティックな恋人を見つけるのが正道だというのに、『アナと雪の女王』はその推進力にあらがってみせるのだ――いわば、彼女たちのお互いへの愛の側に立って。映画の大半の部分において、アナは自分の身を救うための「真実の愛の行為」を「真実の愛のキス」だと誤解してあくせくと行動する。イケメンのハンス王子や、とんま面の愛すべきクリストフが彼女との恋に落ちれば、それですべてが解決だというわけだ。ところが最後の瞬間になって、『アナと雪の女王』はその脚本をバチンとひっくり返し、アナに自分自身を救わせる。アナはただ受動的に愛を受ける女の子でなく、自ら行動的に愛を示して見せる存在なのだ。

 

そのほとんど普遍的な魅力にもかかわらず、『アナと雪の女王』は、疵をかかえた、時にはほとんど一貫性を欠いた映画であり、その根本的なテーマや、主人公たちのアイデンティティに関してさえも、深く混乱を抱えた映画なのだ。エルサの魔法の力が彼女の感情と関わっているものだとするなら――父親はエルサに「隠し通せ、感じるな」と言いおびやかす――ではなぜ、歌詞はなぜ彼女が「よい女の子(グッド・ガール)」でいなくてはならなかったということに何度も言及するのだろうか(悪い女の子だけがなにかを感じるとでもいうのだろうか)? 「手当が必要なやつ(fixer-upper)」に関してはどうなのだろう、あの恣意的なまでにアップビートな、愛が欠点に打ち勝つという頌歌は、どうして不調和にもサウンドトラックCDの真ん中に置かれているのだろう? そしてこの見せかけのミュージカルは、そのミュージカル形式をその最後の場面においてどうして放棄し、108分のうち23分しか音楽がないものになるのだろう?

 

アナと雪の女王』のこのような特異性の核に位置するのが、「Let it go」である。感情的な疎外について歌ったこのパワーハウスバラードは、その性質に似つかわしくないほどのポップ・ヒット曲となった。女優の歌、そしてそのシーンにアニメーションが付き、この箇所はエクスタシー的で、自由を得たようなものとなっている。「正しい、も、間違った、もない 私を縛るルールなどない 私は自由 (No right, no wrong, no rules for me -- I'm free)」しかし、彼女がその解放に払った代償はまた険しいものであった――彼女は自由に自分の感情を感じることができるようになったが、その感情を示せるのはただ自身にのみなのだ。

 

Let it go」にかかわる文脈として、デミ・ロバートがぴったりの事例を提供してくれる。前ディズニー・プリンセスであった彼女が、(――咳払い――)拒食症と格闘し、表舞台への登場へと打ち勝ってみせたのが、エルザの苦境と不気味なまでの符号の一致をみせる。リハビリの代わりに、あの氷の城があり、彼女はその中を満たすディティールを自分で決めることができるというわけだ。しかし、ロバートのファンたちが確かにその関係を見て取るにもかかわらず、ロバートの「Let it go」ポップヴァージョンには、劇中で女優が歌ったものにあったある炎が欠けている。

 

あなたがロバートに関してどう感じているかにかかわらず、42歳のブロードウェイの女神がシンプルなポップ・ソングをうまく伝えることができないなどということが嘘だと認めるなら、彼女のバージョンの「Let it go」が失敗したことには、ある甘美な正義があり、劇中のものの成功にもまた甘美な正義がある。しかしやはり、それにもかかわらず、「Let it go」には、何か原型的に思春期的なものがあり、まるで今にも泣き出しそうな目のティーンエイジャーが彼女の部屋に閉じこもり、ボリュームをひび割れるほど最大にして歌うために書かれた曲のようにおもわれるものがあるのだ。――「もう私が泣くところなど誰にも見せない(グスン)」( "You'll never see me cry [sniff]."

 

以下は、Slate誌のDana Stevensが先週書いたものである。彼女はエルザが「Let it go」の中盤、彼女自身の孤独の要塞を立ち上がらせながら見せる、観客を当惑させるほどの身体的な変化について書く。

曲の感情的なクライマックスにおいて、エルザが彼女の新たな氷の宮殿のバルコニーから日が昇るのを初めて観ようとする瞬間、彼女は突然まるで発作のように彼女の生き生きとした、解き放たれた力を表現し始める――魔法による模様替え、イメチェンを通して。「解き放て 解き放て あの完璧な女の子は死んだ」( "Let it go/ Let it go/ That perfect girl is gone,")と、彼女は自分の古い見た目(落ち着いた深緑のドレスに紫のマント、几帳面に三つ編みして巻き込まれた髪)を捨て去りながら宣言し、おそらくより「完璧」な女の子になる。彼女は日が昇るのを迎えるため、バルコニーへと気取って歩くのだが、そのシーンにおいてエルサは、体の線が出て、太ももにスリットが入り、透け透けの雪模様の裾がついたドレスを着て、白銀のハイヒールを履き、彼女の髪はばさばさと振りほどかれ、肩を交互に前に出して歩くのだ――微妙なニュアンスにおいて、しかし観間違えようもなく、挑発的なバッド・ガールの誘惑のそぶり。

 

エルサが「グッド・ガール」にならなくてはならないという必要性に抗うという箇所は、『アナと雪の女王』の歌の歌詞に何度か出てくる、それがあらすじには何の関係もないのにも関わらず。彼女にのしかかるものは、古風な人倫道徳の規則ではなく、父母をなくして妹と二人になってしまったことからの責任ではある(あと、まあたしかに、彼女が治めなくちゃならない国の)。しかし彼女にのしかかるものは、いちど「Let it go」が演じられると、そこに残された足跡を辿り、そしてまたロバート――エルサとは違い、明らかにそのだらしない公的生活に苦しみ、にもかかわらず彼女自身を厳しく閉じ込めていた女の子――とのかかわりを辿る。

 

民話において――『アナと雪の女王』が、(すごく、すごく)ゆるーーーく原作にしているアンデルセンの「雪の女王」のような民話において――は、魔法というものはしばしば性と結びつけられており、そして現代における民話の等価物においてもまたそうなのである。『Xメン』のミュータントたちは、典型的なまでに、彼らの超能力を思春期の始まりに見出し、スティーブン・キングの『キャリー』におけるキャリー・ホワイトも、彼女の狂信的なキリスト教原理主義者の母親のよい子ではない自分を、その思春期の初めに見出す。したがって、私は「Let it go」に性的な要素がある――たとえそれが最大限に除菌済みの姿で現されていようと――と指摘するのは間違いではないと信じる。しかし決定的なのは、エルサが、誰かのために自分の変身を遂げているわけではないというわけだ。彼女は男の子の気を引くために可愛いお洋服を着るわけではない。彼女は、自分が誰か、あるいは、自分がいまどんな人間になろうとしているのかを示すために、可愛いお洋服を着ているのだ。彼女は、やっと自分にピッタリ合うジーンズを、たぶん両親が望ましいと思うものよりほんの少しタイトなジーンズを見つけた十代の女の子なのだ。あるいは初めて自分の髪を紫色に染めてみた女の子なのだ(心配しないで――ちゃんと落とせるよ)。

 

 

ピクサーがディズニーと合併して初めて作った『メリダとおそろしの森』と同じく、『アナと雪の女王』は、ほとんど手で触れることができるほど確かに、合併相手がダイヤをちりばめられた完璧な女性像を幼い女の子に売り付け続けてきたという歴史と、時には不器用なまでに格闘している(私の娘が、映画が始まるまでの広告映像にいらいらし始めると、娘の友達が言う。「私がお姫さまの映画を観ようとするといつもこうなるのよね」)。ディズニーはまだお姫さまたちを捨て去ろうというのではないが、しかし彼らは明らかにその原型に変化の必要があることを理解しているのだし、また同様に、どのように変化させる必要があるのかも理解している。おそらくそれこそが理由で、『アナと雪の女王』は、あたかもランダムに色々な部分を取ってきたつぎはぎで脚本を作ったような、ごた混ぜになった映画となっているのだ(「えーっとぼく『レ・ミゼラブル』のオープニングちょっと好きなんだよね、あんな感じでここちょっとやってみよっか?」)。観客の子供たちは、もちろん、自分たちがイデオロギー上の対立劇のなかに放り込まれていることを理解しないだろうし、もしかしたら感じさえしないかもしれない。でも、子供たちにも、『アナと雪の女王』には、なにか違うところがあるとわかる。彼らも理解する。彼らがもうすこし大きくなったら。