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フェニモア・クーパー 『モヒカン族の最後』に関する試論

James Fenimore Cooper, The Last of the Mohicans

 

フェニモア・クーパー 『モヒカン族の最後』に関する試論

 

 

1.神話を作る

James Fenimore CooperによるThe Last of the Mohicansは、アメリカにおいても、そしてヨーロッパにおいても、とにかくきわめて広く多くの読者を獲得し、そしてまた親しみとともに読まれ続けてきた、まさにその圧倒的な読まれっぷりこそが目立って特異な小説だと言ってよいようにおもわれる。体裁もちゃんといちおう小説という形にはなっているが、しかしこの小説は、社会の諸相に踏み入ってゆき、近代小説という枠を借りてその探求を行うといったような、分析的なリアリズム小説ではなく、なかば神話として読まれてきたのであり、その点こそを重く扱おうとするのならば、通常の小説を分析するような手続きではなく、また別の手続きが必要となるだろう。作品内の人物の内面や主体性、欲望といったものを云々するような手続きはおおむね無効となってしまい、むしろ作者の欲望、読者の欲望によって、神話が人々の頭の中にぼんやりと準備され、クーパーの手によってそれが作品として具体化され、そして神話として受け入れられてゆくさまこそが扱うべき点となる。

たとえば、この小説はまずいわゆる心理小説以前のものであり、視点の一貫性もない。またあるいは、主題による統一によってこの長編の持続感が作られているというわけでもない。この小説の持続感を作り出し、そして人々にこの小説を神話として読み続けさせてきたものは、物語、筋の一貫性である。とはいえ、筋の一貫性と言うのならこの小説に関しては多少過剰な面があるということも見過ごせない。捕囚とその解放という物語は、幾度も細かく繰り返され、特に大きなコーラとアリスという二人の女性の捕囚と解放という物語は、作品をちょうど2つに分けるようにして2度繰り返される。しかしまた同時に、この目に見える複数の捕囚と解放の物語という筋によって物語内現在の(比較的)短い時間が駆動されているとするならば、その背後で、より大きな時間が流れており、その時間に沿った物語は捕囚と解放の物語に沿って紛れ込んでくる自然描写や、ひとびとの台詞によって読者の意識に立ち現れるようになっている、ということもわかる。

そのような神話は、“too common to the warriors of the woods, to excite either commiseration or comment”(611) といった形で、語り継がれることなく、しかし当時はありふれたものとしてあらわれては消えていった、「アメリカ」以前の神話として語られることになる。ヨーロッパのように古い歴史も神話も持たず、廃墟も持たないアメリカは、自らのロマンスを、土に還る素材のなかから半ば発掘し、半ば捏造する必要があったというわけだ。逆に言えば、この小説を読むことで、当時のアメリカ、ヨーロッパにわたる読者が求めていたアメリカの神話が、そしてアメリカ人という像が立ち現れてくるはずだ。

ここで先取りして、その大きな時間の物語とは、こうだ、と言ってしまいたいのだが、先にこの小説は分析的なものではなく、筋の一貫性によって持続感が作られている近代以前の文学らしいものだ、と言っておきながら、しかしクーパーの、そして読者の意識、または欲望自体にある両義性を体現するかのように、筋もまた両義性をはらんだものとなってしまっている。本論では、その両義性をいくつか確認し、整理してゆくことにしたい。

 

2.すばらしいアメリカの戦争

この小説はフレンチインディアン戦争を描いたものとなっているわけであり、その戦争の描き方には、強くアメリカ独自の戦争を書こう、といった意思が感じられる。書き出しからすでにして、“It was a feature peculiar to the colonial wars of North America, that the toils and dangers of the wilderness were to be encountered before the adverse hosts could meet”(479)となっており、このアメリカ特有の戦争においては、敵とぶつかる前に、まず荒野と向き合わなくてはならない、ということを打ち出してくる。イギリスとフランス、国と国が戦っているという感覚の希薄さは、筋の完結性においてイギリスとフランスの戦いの行く末が大きな価値を占めていないことからも明らかだろう。多くの細かく描写される戦闘は、おおむねアメリカ的なものとして描かれる荒野、森の中、洞窟の中で行われ、そこにおいては格闘や射撃の腕と同様に、自分の痕跡を消す技術、追跡の技術、隠れている敵を見つけ出す技術、といったものが重要視される。見通しの悪い森や、落下すると危険な崖、隠れる場所の多い洞窟をどう利用するかが勝敗を決めるのであり、敵と実際に相対する時間よりも息をひそめ、息に耳を澄ませる時間のほうが長い。この小説では、個人(というか部族の英雄や、神話的な狩人)と個人が戦っているという感覚も強いのだが、同時に人間とアメリカの自然(森、荒野、洞窟)が戦っている、という感覚が強く打ち出されることになっている。

では、このアメリカの自然とは、どういったものとして描かれているのだろうか。そこには強い両義性が潜んでいる。毎章ごとの冒頭に、神話的な世界とのつながりを残すイギリスの詩や戯曲を引用し、それによってその章の中で描かれる場面を彩る、という点からは、ヨーロッパの神話を借りて、アメリカの自然をロマンス化しようという欲望が感じられる。たとえば4章の冒頭において、A midsummer Night’s Dreamからの引用(509)がなされることで、インディアンの棲むアメリカの森は、妖精の棲む森としてロマンス化される。これはクーパーの興味が、必ずしもアメリカ独自の森の風景を描こうとしたものではないということを示す。この小説においては自然描写もまた近代以前、風景以前の、意味のある自然といったものになっていると思われ、問題はあくまで戦争という激しい状況下における、その意味のある自然と人間の関わりかたの中に、近代以前の神話を作り出すことにある。

近代以前の神話として、まずその自然の中での、物語現在における戦闘には、ある美しさというものが描かれている。大量の銃と大砲と、といった大戦争にはロマンスを見いだせない者も、見通しの悪い森の中で不可避的に行われる1対1の戦闘、しかもインディアンであれイギリスの将校であれ、善人であればそれぞれの誇りと流儀に基づいた戦闘には、ロマンスを見いだせるだろう。そして例えばホークアイは、“God knows what the country would be, if the settlements should ever spread far from the two rivers. Both hunting and war would lose their beauty.”(714)と述べてみせるのだが、ここなどでは過去にあった、アメリカの自然の中での戦闘を美しいものとして見せる態度が表れている。最後の戦闘における、マグアに銃を向けるホークアイの手の震えに同調するように、大地が揺れてマグアが崖から転落死するといった幕切れからは、人間と自然の節理といったものまでが見て取れる。

しかしまさに同じホークアイは、高い崖から自然を一望し、“if it was as easy to look into the heart of man, as it is to spy out the nakedness of Montcalm’s camp from this spot, hypocrites would grow scarce, and the cunning of a Mingo might prove a losing game, compared to the honesty of the Delaware.”(631)とも口にする。ここにおいて、まずは自然の持つ性格がインディアンの性格になぞらえられていることがまず確認されるわけだが、その際に、自然が二つに分裂し、その見通しの悪さが悪いインディアンに、そしてその見通しのよさが良いインディアンになぞらえられている。見通しの悪い森と、そこで生きる知恵をつけた森の戦士たちであるインディアンやホークアイは、おおむね美しく描かれるわけだが、ここではその見通しの悪さは悪として描かれている(「正直さ」と「狡猾さ」が善と悪として分けられてしまうこともやがて両義的な混乱を示すことは後述する)。

この小説において、戦争描写はアメリカの自然と深く結びつくことで神話とされているわけだが、自然はまた両義的なものとして分裂してしまっている。先に述べたように、この小説は必ずしもこのような両義性を分析的に探究しようといった意図を見せるものではなく、あくまで所与の条件、すでにひとびとの意識の中にあるものとして、こういった姿があったのだろうと推測される。クーパーはアメリカの神話としてそれに姿を与え、ひとびとはそれを認めたというわけだ。

 

 

 

3.インディアンでありたい / インディアンになりたい

一方で、すでに触れたようにこの小説の中では個人のアクションも多く描かれ、英雄像とも言えるようなものが作られている。ここで英雄像としてさしあたり扱うのは、まずすでに失われたものとして提出される純血のインディアンであるアンカスであり、生き延びてゆくホークアイであり、過去の時代から残っている騎士といった風情のヘイワードである。このような分類の仕方がある程度しっくりくることからもわかるように、いかにも神話らしく、彼らの英雄性はその個人性にあるのではなく、それぞれ得意な類型ではあるかもしれないが、ともかくその類型性から来るものである。

すでに述べたように、この小説における戦闘とは、なかば自然との戦闘という風情を帯びる。すなわち、自然をよく知り、自然の善性を身に着け、自然の悪に立ち向かう、という技術が求められているというわけだ。

コーラによって“creature of nature”(530)と呼ばれる、純血のインディアンであるアンカスは、自然の善性を一身に受け、それを手放していない存在としてあらわれる。その肌が“pure in their native red”(529)とわざわざ言われる彼は、何度かその純血性に言及され、その血筋の良さ、その純血性を特徴とするキャラクターであり、それはやがて他のインディアンたちとの対比によってより特徴づけられるものなのだが、ここではさしあたり“uncorrupted natives”の中に“Grecian chisel”に似た、“rich natural gifts”を持つ彼の像が描かれていることを確認しておけばよいだろう。“creature of nature”であるインディアンは、実に生まれながらにして自然の力を持つ存在である。それは、時間の経過によるcorruptionや、純血が損なわれないアンカスによってもっともよく体現される。物語の後半において、主人公たちが窮地を脱するのは、まさに彼がその血筋を示し、長老から認められるからであった。

その一方で、もうモヒカン族には、チンガチグックと彼しか残っていない、ということは、この純血性は失われるほかないものであるということである。当然のことながら、純血性は時間と共に失われ、corruptしてゆくものでしかないわけだ。時間の経過と共に損なわれるという点に関しては、ホークアイによって、“old age is a great injury to great looks (…) The place is sadly changed!”(531)と、美しかった滝がその姿を変えてしまったことについて言及されるように、実に自然そのものに関しても言われていることである。アメリカの純血の自然は、物語現在においてまさに失われつつある。そして、アンカスの死によって、それは失われたものとして神話化されるというわけだ。

しかし、また別の英雄、ホークアイにおいては、そもそも彼自身が複数の属性にまたがる両義的なキャラクターであるわけだが、以上で見たようなこの小説における自然と時間の関係に関して、また別のビジョンがあらわれ、それらの性格を両義的にしている。

すでにくどくどと述べてきたように、この小説における戦闘は、自然との戦闘である。すでに引用した書き出しからしてすでに、この小説はアメリカという土地に特有の戦争というものを打ち出しており、そこでは敵とぶつかる前に荒野とぶつかる、という運びとなっている。そしてそれに続き、以下のように語られる。

 

A wide and apparently an impervious boundary of forests severed the possessions of the hostile provinces of France and England. The hardy colonist, and the trained European who fought at his side, frequently expended months in struggling against the rapids of the streams, or in effecting the rugged passes of the mountains, in quest of an opportunity to exhibit their courage in a more martial conflict. But, emulating the patience and self-denial of the practiced native warriors, they learned to overcome every difficulty(479)

 

つまり、人はアメリカの自然の中で行われる戦闘において、実際的な成果を上げ、勇気といった美点を示すためには、まず“native warriors”にならなくてはならない、というわけである。“native warriors”が、ただその血筋によって担保される生まれによって手に入れられるステータスであるとすれば、このような書き出しはそもそもおかしいわけだ。つまり、もちろん自然主義のように分析的に描かれるわけではないが、この小説においては、生まれによるインディアンと、経験によるインディアン、というものが分裂して存在する。そしてホークアイは、この小説の中でもっとも、というか唯一、経験によりインディアンの属性を身に着けるヒーローとして登場する。

悪役のマグアからは“whose skin is neither red nor pale”(808)と言われもするホークアイは、その生まれである白い肌から、インディアンのものである赤い肌へと近づいている人間である。“exhibited, through the mask of his rude and nearly savage equipments, the brighter, though sunburnt”(499)といった形容においては、その見た目は“red skin”を持つ純血のチンガチグックと比較され、その類縁性を誇る。肌は“brighter, though sunburnt”と、自然の中で戦い続けてきたことによる日焼けによって、純血のインディアンと少なくとも比較可能なものとなっているわけだ。彼はそれに限らず、身に着けるものもインディアン風のものであり、また名前もインディアンから与えられており、言語もインディアンのものを話し、あるいはインディアンが熊の皮を着て呪術を行うといった風習を利用し、自分も熊になり切って見せもする。彼はそのように、経験によってインディアン的な属性を身に着け、自然と戦うというキャラクターとなっている。

上でその古くから守られた純血性を特徴とするキャラクターとして論じたアンカスでさえ、“sympathy”の情を持たないミンゴと比較し、“sympathy”の情を持っているという点においてその高貴さが褒められ、“advanced him probably centuries before, the practises of his nation”と述べられるのであり、作品を通してここにおいてのみではあるようにおもわれるが、逆にインディアンのほうにも時間の経過による進歩といったビジョンが見える記述も書かれてしまっている。

アメリカ独自の神話を作り、そしてアメリカ人の像を提出するためには、時間の経過によって失われた独自の過去を打ち出すだけではなく、それ以降の時間の経過によって現在まで繋がってゆくある代表的な類型を作り上げなければなかったということだろうか。アメリカの開拓時代のフォーク・ヒーローと呼ばれる人々が、インディアンと戦いながら、しばしばインディアンにも認められ、あだ名をつけられ、あるいは養子にされたりした、といったエピソードを誇ることは、ひとびとの集合的な想像力が、すでにそういった型を欲望し、受け入れていったということを示す。ここで、生まれと訓練に分裂した自然の属性は、神話時代からに現在に向かっての崩壊、という時間性と、神話時代から現在に向かって吸収されてゆく、という時間性に重なって分裂する。

最後に残されたヘイワードは、優れたイギリスの将校、という人物であり、主君に忠義を尽くし、女性のために働く、ヨーロッパ的な騎士道精神の持ち主である。彼がコーラという黒人の血を持つメインヒロインではなく、スコットランドの母の血を引くアリスと結ばれるというのも、彼らのストーリーが傍流であることを示すように思われる。彼らの物語は、ヨーロッパのロマンスをアメリカに持ち込むための補助線であり、また彼らによって、アメリカ独自のロマンス性が特徴づけられるというわけだ。

この物語は全体的に、イギリス対フランス、といった大きな国同士の戦争という感覚が希薄にされている。英仏の関係は、自然描写などと比べてはるかにあっさりと語られ、続いて“[I]t was in this scene of strife and bloodshed that the incidents we shall attempt to relate occurred, during the third year of the war which England and France last waged for the possession of a country that neither was destined to retain.”(481)と述べられる。ここにおいて、まるで英仏が相争って勝手にアメリカの大地を手放したように書かれているような気にさえなり、インディアンから土地を奪うことやその復讐については語られるこの小説において、アメリカがイギリスから独立してその領土を奪った、という歴史的な罪悪感は抑圧されているように思われる。結果的に、英仏間の国と国との戦いは希薄となっているのだが、いくつかそのようなものが希薄ながらに描かれる箇所があり、またイギリスとフランス、という対立にこだわる人物も登場する。しかしいずれにせよ、そこを読んだ結果、読者に与えられる印象は、ヨーロッパの騎士道的なロマンスは、アメリカの自然においては、あるいはアメリカ神話時代であれ、ヨーロッパの歴史と比較しては新しい時代においては、無効になっている、というものである。

ヘイワースの主君格である、英仏の軍隊を代表する軍人がそれぞれ物語に姿をあらわし、砲撃なども使って戦争するシーンにおいても、視界のあちこちにインディアンが忍び込んでくるような描写があらわれる。軍人たちはインディアンの存在に居心地の悪さを感じているのだが、物語の多くの場面を見ればわかるように、インディアンを欠いて戦争を行うことはできず、フランス軍は「悪いインディアン」の「非道の行為」に対して見てみぬふりをすることしかできない。

マンロウは、モンカルムがその爵位を金で買う、というようなイメージを何度も口にし、またあるいは、技術の進歩によって戦争が美しいものではなくなり、卑怯なものになった、とも口にする。当初はイギリス軍を代表する英雄として登場した彼が、決定的にその力を失うのは、彼が味方だと思っていたイギリス軍から援軍を断られ、それを裏切りだと感じ、また彼が先祖から伝わる偏見によって信用できないと思っていたフランス軍人に情けをかけられる、ということである。“I have lived to see two things in my old age, that never did I expect to behold. An Englishman afraid to support a friend, and a Frenchman too honest to profit by his advantage!”(661)と彼は述べ、ここではさしあたりフランス人はホメられているように見えるのだが、すでに触れたようにフランス人はインディアンの残虐行為に見てみぬふりをしたということで結局ここでホメられたような地位を失う。すなわち、ここにおいて“old age”に達してしまった彼は、自らが先祖から受け継いで生きてきたヨーロッパの騎士道物語の崩壊を目にするのだし、そもそもこの瞬間までも彼の姿は滑稽さをあえて込めて描かれていたように思われる。ここでは、ヨーロッパのゴシック小説と変わらず、高貴なものの腐敗という時間性が導入されている(アメリカにその時間性が移植された際、自然やインディアンの純血性が失われるということになるというのはすでにみたとおりだ)。

ともあれ、このような主君たちは失墜するが、その下でインディアンやホークアイとも交わりつつ、姫のためにアメリカに順応して実際的に働くヘイワードは、彼のロマンスを成就することになる。アリスとのロマンスの成就は、終わっていく物語の結末と、そしてこれから生まれてくるホークアイたち、純血でありながらインディアンの技術を身に着けてゆく白人たちにかすかな生まれの「高貴さ」の幻想を残すものとなっているわけだ。

 

 

3.悪いやつらはみなごろし

すでに示唆しておいたが、マグアが代表する「悪いインディアン」という形象もこの小説には存在する。ホークアイが“he who is born a Mingo will die a Mingo”(511)と口にするような箇所からは、それが「生まれ」によって規定されるものだという、すなわち自然の悪性をそのまま体現するインディアン、として、自然の善性を体現するインディアンと対比的に描かれていることがわかる。

その一方で、「残虐さ」などといった「悪さ」ではなく、とくに「卑怯さ」と関わる問題として、インディアンの中での混血性といったものも描かれる。たとえばマグアは部族を渡り歩いたという点において、またあるいは白人に差し出された酒を受け入れてしまったことで非法行為を働いた者として、その純血性に欠点があるものとして描かれているわけだし、のちに部族内で処刑されるインディアンは、よその部族の母を持つために悪い血を持つものとされている。これもすでに触れた、インディアンの純血性が腐敗してゆくという時間性と関わる問題である。

ところで、この“cunning”である、「卑怯」という問題に関しては、“honest”というそれに対置される言葉と関わり、またすこし複雑な様相を呈す。騎士道精神に基づくhonest / cunning といった区分がもはや機能していないことはすでにみたとおりである。また、たとえばマグアの雄弁に対し、アンカスとチンガチグックの寡黙さは、卑怯さと正直さをはっきりと示すものかも知れず、このインディアン同士の問題に関しては、話は簡単に割り切れるかもしれない。その一方で、幾度かヘイワードがフランス軍のフリをするという箇所や、ホークアイとヘイワードの行うさまざまな変装は、決して卑怯だとなじられることがない。アンカスとチンガチグックはそのような変装はしない(自分を自然の生き物のように見せることはある)のと比較すると、その差ははっきりしているのだが、おおむね二人の白人英雄たちの騎士道精神にもインディアンの規範にも基づかない行為は、気の利いた機転として描かれるように思われる。二人の身に着けたこの実際的な特性は、作品内からの出所がはっきりとしないが、この少しワルい行為は、「グッド・バッド・ボーイ」的に、今後もアメリカのヒーローの特性となってゆくだろう。ここにおいて、アメリカのヒーロー像は両義性を抱えたままに、その「機転」を悪と見るような基準もまた捨て去ったことになる。

ここでもう一度整理し直そう。

  • この小説では、アメリカ独自の神話を作るために、アメリカの戦争に関して、「自然」を描くことが眼目となっている。アメリカにおける戦闘においては、敵と戦う前に「自然」と戦うことが要求される。
  • (しかし、その「自然」は、白人の目から見たものである。あるいはさらに、ヨーロッパ人に対して提出されるアメリカ独自の「自然」である。またさらにあるいは、すでにその「自然」を失ったという地点から、過去にさかのぼって昔は存在した純粋なものとして捏造されるような「自然」ではある。)
  • そして、白人の目から見られた「自然」には、そもそも「良い自然」と「悪い自然」がある。「良い自然」においては、文明に汚れていない、純粋な力、また素朴な美徳、美がある。「悪い自然」においては、その見通しの悪さがあり、文明に慣らされていない残酷さがある。
  • いずれの「自然」も、それをもっともよく体現するのは(純血の)インディアンということになっている。「良い自然」を体現するのが、純血のモヒカン族であるチンガチグックとアンカスであり、2人は自然の力を持ち、悪い自然を打ち負かし、その純粋で素朴な美徳を誇る。一方で、ヒューロン族が「悪い自然」を体現する。彼らは見通しの悪い自然を利用し、待ち伏せし、残酷な虐殺行為を働く。
  • いずれにせよ、どちらのインディアンも、その「純血」性によって、良い悪いに関わらず、生まれからしてもう、純粋な自然を体現するものだ、ということになっている。そして、純血性とは時間の経過と共に失われるほかないものであり、「純粋な自然」が失われたもの(として捏造されたもの)であったのと同様、彼らもまた常に―既に失われた人間像として描かれる。
  • すでに失われた純粋な自然を体現する純潔なインディアンと違い、純血でないインディアンは、この小説内では常に悪いインディアンとしてあらわれる。しかし、その悪さは純潔の悪いインディアンが「生まれ」によって保障された気質的なあるいは民族文化的な「残酷さ」などを体現していたのと違い、混血のインディアンは「生まれ」の悪さに還元できない、気質の問題ではない「卑怯さ」を体現する。
  • さて一方で、白人側から見れば、純粋な過去の美徳とは、きわめてヨーロッパ的な騎士道精神的なものである。しかしこれは、すでに指摘したように、この小説内では、アメリカの自然とぶつかって無効化され、滑稽なものにすらなっている。すなわち、これもすでに失われたものである。
  • この小説内で極めて重要な地位を占める脇役であるアンカスが「最後のモヒカン族」であるとすれば、主役のホークアイを中心にしてその対となるのは、「最後の騎士」とでも呼ぶべきヘイワードである。彼は最後の騎士として、多少、ホークアイやインディアンたちと混じって「騎士」としては堕落とも呼べそうな行為形態を取りつつ、自然との戦闘に辛い勝利を収める。そして、混血娘であるコーラではなく、アリスと結婚し、舞台から退場する。純潔の白人性、ヨーロッパ性の中にある美徳が、アメリカの中で無効化され、終わりの物語を奏でながらも、あくまで文字通りの人種的には純潔を保ったまま、これからも続いてゆくことの形象が、ヘイワードにはある(これはもちろん作品外から見れば批判の対象となるべき問題である)。
  • ホークアイは、白人がアメリカの自然に相対し、「インディアン」化した、一種象徴的な意味での「混血」の人間である。彼は混血のインディアンと同様に、「卑怯」とも見える行為を繰り返すが、それは悪いものとしては描かれず、むしろアメリカン・ヒーローの型のひとつである、「知識」ではなく機転の利いた「知恵」を用いる人間、として描かれる。
  • 「混血」のインディアンを過剰に悪いものとして描くことによって、作者クーパーは、純粋な「自然」を美化し、あるいはすでに失われたものとして過去に捏造して、アメリカの神話とした。さらに、ヨーロッパを離れた白人は、その生まれの、文字通りの意味での白人の純血性によって、混血のインディアンと同様に、象徴的には混血になった卑怯な行為をしても、はっきりとそこで差異化される。クーパーはここで、ヨーロッパの騎士道精神を無効化しながらも、ヨーロッパの騎士道物語の枠(さらわれた娘をヒーローが助けにゆくという筋書き)は借り、新しいアメリカ的な騎士、アメリカ的なヒーローの神話を作り上げた。

 

本来であれば、ここからそのヒーロー像に関する具体的な問題、あるいは人種に関する具体的な問題、そしてアメリカの神話を作らなくてはならなかった歴史的な状況などについての論考をし、本論にストーリーと結論を与えるべきなのだろうが、当時の歴史的な文化状況に関して専門的な知識を欠くわたしにはその術がない。

 一方で、とにかくよく読まれ、よく影響を与え、アメリカの神話となって現代に至るまで根強い支配力を持つある物語が、スタート地点においてどのような特徴を持ち、どのような類型を作って利用したか、ということはこの論で多少なりともヒントが出たのではないか。本論はこの小説を土台にして、この小説以後に花開くアメリカ文学が、ここからどう発展していったのかということを捉えるためのひとつの準備段階のようなものである。

 

 

 

■扱えなかったが、残されて扱いたいテーマ

①見通しの悪い自然における戦闘において、視覚よりも聴覚が戦闘における描写において重要性が増す場面が増える。このあたりと、近代的な現象である五感の分離について。

②さらに、この小説では、すでに「卑怯」スレスレの「機転」の利いた行為として紹介した、「変装」という行為が頻出するのだが、その「変装」とはきわめて近代的な行為であり、また「視覚」を欺く行為である。

③そもそも、生まれの白人性に対して、それを乗り越え、「インディアンになる」というホークアイのヒーロー像は、(近代)アメリカ的な「自分で自分を作り上げる」という、いわゆるセルフ・メイド・マン神話の端緒でもある。ここにもまた近代の端緒が見え隠れしている。

④悪役であるマグアは、生まれからして残虐なヒューロン族と異なり、人間的な「卑怯さ」を持つものだとして書かれてはいる。しかし、他の悪役と比べても、彼には異常な肉付けがなされており、彼もまた半ば近代的な人間である。そこには作者であるクーパーの当初の意図を越え、白人としての彼によるインディアンたちへの罪悪感が無意識的に投影されていたり、あるいは人種の問題や、また女性(ジェンダー)をめぐる問題が、ちゃんと処理されずに濃密に書き込まれている。やはり彼を重く扱うことは、「アメリカの神話」に常に付きまとう影、あるいはその影を取り払うことで変質していく神話の歪み方を測定する上で重要なことのように思われる。