小沢健二シークレットライブ

 2015年3月29日、岡崎京子展のあとに開催された小沢健二シークレットライブに関するレポート。

 話を付けてくれた編集者の友人に、そのお返しとして書かされたもの。

 

 

 ライブには、雑音が似合うライブというものがあって、ひとびとの静かなざわめきがなにやら幸福なあたたかみのようなものを作るものもあれば、若者がハシャいだりおたくの怒号が響いたりが盛り上げるロックバンドやアイドルのライブもあり、この日の小沢健二のライブは、誰かの連れてきた小さな子供が走り回りながら叫ぶ細く甲高い声が、静かな音楽の合間に割り込んでくるようなライブだった。もともとクローズドなライブだったはずが、会場もオープンな場所に変更され、開始の直前に一般客にもアナウンスが行われたライブは、アコースティックで歌う貴重な小沢健二の姿に、場が過剰なまでに静謐とさえ言ってよいような空気に満たされていたものだったのだが、それと同時に独特の開けた空気も持っていた。

 独特な、という言葉で片付けるのはよくないだろう。そこにはライブの一回性、その場にたまたま集まったとひとたちのとりあえずの偶然なまとまりといったものを大事にするようなあり方が表れているようなきがする――のだが、その理解には多少の説明も要するかもしれない。それは岡崎京子フリッパーズギターの時代、そして小沢健二がそれから独自のかたちで距離を取ろうとして、取れたのか、取れていないのか、結果的にはよくわからないのだが、とにかくある挑戦を行ってきたことと関わる。

 登場から、「天気読み」「天使たちのシーン」と2曲続けて歌った小沢健二は、その日1回目のMCで、「親」と題した文章を読み上げ、<消費と親>について語る。若者が趣味の行動において親を持たないようにふるまう時代と、センスの良し悪しがそれによって測られたりもする消費の時代が重なっている、という指摘に始まり、親は消費の真逆を行く、親は絶望的に軽く選んで消費することができない、というふうに話は展開してゆき、そして最後に、小沢健二が日本に帰ってきて岡崎京子に会いに行くと、その周りには看病する岡崎京子の親がいる、というふうに続いてゆく。友達の家に遊びに行って、その親に会うと、友達がすこし違って見えるのと同じように、そうして岡崎の漫画を読み直すと、すこし違って見えてくる、というかたちで、話が締めくくられる。

 ここで行われているのは、岡崎京子を積極的に誤読しよう、という、あるいは、あるすでに流通していて(そしてあるいは消費されもする)岡崎京子像と違ったまた別の岡崎京子像を提出しようという試みであろう。たとえばまさに今回の岡崎京子展を例にとってもよく、これはそれ自体すばらしいものであったわけだが、そのアプローチは明確に当時の時代性と岡崎京子という作家像を同時にあらわにしようというものであったように思われる。入場してすぐに壁一面に張り出された年表、雑誌の対談やエッセイに近いような漫画を中心とした展示からは、時代の空気が伝わってくるし、そしてその空気を誰よりもよく描き出してしまった漫画家という岡崎京子の姿が伝わってくる。わたしにとってもそうなのだが、岡崎京子は、好きだ、とか、偏愛する、とか、そういった漫画家ではぜんぜんないようにおもう。偉い漫画家、正しい漫画家、優れた漫画家、天才漫画家、といったラベリングは似合うが、個人的に愛を注ぐ漫画家というふうにはあまりならないのだし、それは、岡崎京子がある時代の巫女のように、その中心を描き出してしまったからではないか。そしてその時代とは、消費の時代だった。

 岡崎京子は展示されている記事のひとつで、80年代前半と後半の違いについて語っていた。岡崎によれば、80年代半ばにある切断線といってもよいようなものが引かれ、それ以前の前半ではゆるやかで自由な消費のゲームがあり、その楽しい空気が『東京ガールズブラボー』などの作品で描かれているという。そして80年代後半になると、その消費と選択のゲームがある飽和状態を迎えてしまう。その先に、『リバーズ・エッジ』の「平坦な戦場」があり、『ヘルタースケルター』の「りりこ」があらわれる。もはや何を選んでも、そこには違いなどなく、逃げ出す外部のないような一元化されたマスが平坦に広がる。

 同じく展示されていた、岡崎京子小沢健二との対談を見てもよい。そこで岡崎京子はソロ歌手になった小沢健二の歌詞を見て、自分の先に進んでしまったなあ、といった感慨を漏らす。そこで問題となるのは、フリッパーズギターが岡崎とまた同様にその消費の時代を生き、「引用と編集」を行ってきた、そしてわたしもまだ「引用と編集」の時代にいるのに、小沢健二の歌詞からはもうそれが感じられない、といったことであった。

 「消費(選択)の飽和」、そして「引用と編集」から、小沢健二がまたひとつ引いた明確な切断線として、例えばここで小沢健二の最初期の曲、「ローラースケート・パーク」の歌詞、「ありとあらゆる種類の言葉を知って 何も言えなくなるなんて そんなバカなあやまちはしないのさ」といったものを引いてみてもいい。飽和して一元化した平坦な消費の世界では、もう人々は「自分」などといった幻想を夢見ようもない小さな「りりこ」のようなものになるほかない。フリッパーズギター「恋とマシンガン」の歌詞、「本当のこと隠したくて 嘘をついた でまかせ並べた やけくその引用句なんて!」といったように、ひとびとは「本当のこと」を隠し、「引用と編集」によってのみ語れなくなっているわけだが、「Dolphin Song」の歌詞、「ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちの中旅に出る」「ほんとのこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり」などを見てみれば、そもそも「ほんとのこと」などそんなものはない、あるいはその探求は夏休みのような80年代前半のお祭り騒ぎにのみ許されたものだというようなある時代性が見えてくる。選択肢の飽和した社会の中で、消費社会にふさわしくやけくそな引用を繰り返すほかない時代に、小沢健二は「そんなバカなあやまちはしないのさ」と訣別を告げて見せる。「ラブリー」で「世界に向かってハローなんつって手を振る」「いつか僕ら外へ飛び出すよ」と語った小沢健二は、「Life is comin’ back」と叫んで見せるわけだ。

 ところで、「僕ら」が「外に飛び出」せるような「いつか」は、来たのだろうか。come backしつつあった失われたLIFEは、帰ってきたのだろうか。80年代後半に訪れたという消費の時代は終わることなく現在まで続いており、小沢健二はその後反時代性を強めてゆき、はたから見ると半ば宗教めいたと言われることすらある雰囲気すら漂わせるようになった。小沢が取った方法は、ナイーブともいえるほど素朴なものであるように見える。それは消費社会を支える条件を洗い出し、素朴に、それらと離れた暮らしを送る、といったものであった。今回のライブも、録音や撮影を禁じられていたのだが、それはもちろん版権的な問題でもなければ、プライベートを守る、といったことでもなく、つまり消費に抗うこの瞬間を大事にする、といったそんな素朴な理由によるもののように思われる。「熱が散らされてゆく」平坦な戦場の消費社会の中にあっても、ふとある瞬間、ひととひとの間に熱が分かち持たれるような瞬間があり、それを大事に守り育ててゆけば、そんな奇跡のような「神様がそばにいるような時間 続く」というわけだ。小沢健二の初期の曲の歌詞からは、鋭敏に時代を感じてしまった聡明な彼の絶望と、そこから外に出ようとする彼のきわめて明るく、同時に悲痛なそんな神様への祈りに似たような雰囲気があり、やがて彼はハタから見ると吹っ切れるようにして、その先へと進んでいったように思う。

 岡崎京子に対して行われた今回のライブ、2つ目のMCは、「“友情”という魔法の力」と題された文章を読み上げるものだった。岡崎京子の漫画には、「遠い友人」というものがよくあらわれる、と小沢は指摘し、彼女の漫画のなかでは近くにいる友人はだいたいしょうもないやつで、あまり話をしない距離のあるひとがじつはこころの距離が近い、というある特徴があると続ける。それは、よく知らないから憧れているだけだ、本当の姿を知らないから夢を見ることができるだけだ、というようなひともいるが、そうである場合もあり、またそうでない場合もあり、いずれにせよどうでもよい、とにかく、そこには「遠い友人」というものがある、と言い、小沢は「友情」というものについて語り始める。「友情」とは、極めて強く社会を動かしている感情でありながら、なぜかあまり語られず、そのうまい説明などはなかなか目にすることがない、組織論などでたまにもっともらしい説明を目にするが、ちょっとしてみると、ばからしい、と思うものばかりだ、というわけだ。

 実際、岡崎京子の漫画に現れる「近い友人」との友情は、じつに消費社会のものらしい、流動性と閉塞感の共存する「平坦な戦場」の一要素でしかないものがほとんどでありながら、ちらちらと「遠い友人」との友情がその一方でよくわからないままにキラキラと光っており、そしてだれだって、たまには互恵性などでは説明のつかないある不思議で、かつありふれた友情を感じる瞬間があるだろう。MCに続き小沢健二は「強い気持ち・強い愛」を演奏し、「いまのこの気持ち 本当だよね?」と歌ってみせる。「本当のこと」などといった大それたものは必要でなく、ただちょっとした「本当の気持ち」があればいいのだ、と、いったような小沢健二の主張は、さほど反時代的なものではないのかもしれない。「強い気持ち・強い愛」に続いては、前日小沢健二が武道館ライブにサプライズでゲスト登場した東京スカパラダイスオーケストラ(ここにもまた別の友情があるわけだ)から、それぞれOKIとGAMOをゲストに(前日急に話を聞いて誘われたという)、「流星ビバップ」と「ドアをノックするのは誰だ?」が演奏され、熱を持った会場に、岡崎京子展のタイトルにも使われた「戦場のボーイズライフ」が続く。もう岡崎京子も時代を生きるヒリヒリしたガールズではなく、小沢健二もボーイズではないが、ずっと現在までただ続く平坦な戦場の中、ふと訪れた「神様がそばにいるような時間」は、突然観客にシングアロングを求めて失敗し、笑いが起きたりもするような和やかな時間となり、最後に小沢健二がヘラヘラと「オカザキキョウコー!」と叫んで見せて、とりあえずの終わりを迎えた。

 

 

セットリスト

①    天気読み

②    天使たちのシーン

③    MC1 「親」

④    それはちょっと

⑤    春にして君を思う

⑥    神秘的

⑦    MC2 「“友情”という魔法の力」

⑧    強い気持ち・強い愛

⑨    流星ビバップスカパラOKIゲスト)

⑩    ドアをノックするのは誰だ?(スカパラGAMOゲスト)

⑪    戦場のボーイズライフ

⑫    東京の街が奏でる

⑬    ラストMC