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ゾンビ――体の終わりを考えるためのフレームワーク

 去年の夏ごろに、文学における幽霊の表象の歴史といったものを考えていた(これは論文にするつもりです!!)とき以来、

 人間の表象が明白に壊れていることが露呈される瞬間というのに興味が流れてゆき、

 現代であれば、まずおそらくもっとも時代精神を反映しているのは、文学よりも映画や漫画などのサブカルチャーであり、

 そしてそのとき中心になるのは「幽霊」よりも「ゾンビ」だろうな、という見立てを立てたのでした。

 そこはまあめちゃくちゃフクザツな話なのですが、しかし実際調べていくと、英米圏でもわたしと同様にゾンビに目を付けた論者たちが、2010年前後にゾンビに関する大量の論文や論集を出していて、とりあえずは間違いないのだろうなと思います。

 

 以下のものは、それでしばらくゾンビについて考えていると、某雑誌の編集をやっている友人から、とつぜん「こんどうちの『ヘルス特集』の中で、ゾンビのことを書いてもらうことにしました!」と指示されて書いたものです。

 しかし原稿を出すと、「これ、やっぱり、こんど『化け物特集』やるんで、そっちに回したいです」とか言われてしまって、ヘルス特集には載らなくなったのでした。笑

 ヘルスとゾンビ、タイトルも「体の終わりを考えるフレームワーク」、吸血鬼と比較しろ、1500字程度に収めろ、とあれこれのムチャな指示の上で書いたものなので、おそらく『化け物特集』では別に書きなおすので、公開してしまいます。▼下の「続きを読む」から。

 

ゾンビ――体の終わりを考えるためのフレームワーク

 

 昔々、まだ体が終わる前のころ、ゾンビの歴史は、中米のブードゥー教で始まる。ラテン系の農場主が、アフリカから連れてきた黒人奴隷を統治するために簡易化されたキリスト教の信仰を教え込む。奴隷たちは、アフリカでの信仰にキリストの復活というイメージを加え、さらに農場主に自由を奪われた境遇を霊魂が奪われるというイメージに結晶化させる。そうして生まれた原始的なゾンビの形象とは、悪い魔法使いの言うなりに使役される動く死体、というものだった。

初めてゾンビが北米の恐怖映画となった『ホワイトゾンビ』(1932)では、『魔人ドラキュラ』の主演でもあったベラ・ルゴシがハイチの悪い荘園主を演じ、彼に白人旅行者がゾンビ化される、という恐怖が中心となっている。中米の「未開人」の風習というイメージがあった食人(カニバリズム)を行うゾンビに噛まれると感染する、というドラキュラ的な形象がさらに加わるのは、近代ゾンビの産みの親、ジョージ・A・ロメロにおいてだ。この時期は、中南米から北米への人口流入が激しく、大衆の中にあった(文化的、人種的な)「混血」への恐怖が「感染」への恐怖として形を成したと言える。

時に似通ったモンスターとして扱われるドラキュラとゾンビの明白な枝分かれは、実はここにこそ始まる。本来的に旧世界(ヨーロッパ)的な、古城に住む貴族の血の腐敗というゴシック的な物語から、人種のるつぼとなった新世界(アメリカ)における、混血の恐怖が刻印されたアメリカ的物語へと。ここで真に生まれた――墓から蘇った?――ゾンビは、北米が待望した、初の「純国産モンスター」だった。

しかし、“血”統書付きの貴族にまつわるゴシック的な恐怖物語であれ、混“血”にまつわるアメリカ的な物語であれ、物語はあいかわらず我々の体の奥深くの、「血」を巡るものではないか?――いや、ゾンビは北米の地に根差し、さらにここから微妙な変貌を見せることになる。

ロメロのデビュー作、『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』の結末で、ゾンビに立ち向かう主人公の黒人青年が、(KKKめいた?)白人男性たちによる自警団にゾンビと間違えられて射殺される。ゾンビの血が1滴でも混じればゾンビになる、というルールは、黒人の血が1滴でも混じっていれば黒人であり、人間扱いされない、という悪名高いアメリカ南部の「一滴の血の掟(ワン・ドロップ・ルール)」のパロディとなっている。ロメロはここで、正しく、ゾンビとは定義上黒人奴隷であった、ということこそを北米化し、ドラマ化し、葬ってみせたのだ。

ここで同時に、黒人という形象の上で、深部に流れる「血」から表面の「皮膚」へとゾンビの焦点が交錯する。深さを欠いた映画の皮膜(スクリーン)の上では、ゾンビを実際に描き出すのは、なによりも腐敗し青ざめた皮膚のメイクなのだ。ミンストレル・ショウをはじめとする、アメリカが黒人と白人の皮膚の差をショウ化する伝統的な手法だ。

ここでわれわれはマイケル・ジャクソンの「スリラー」のことを思い出さないだろうか? ゾンビに扮したマイケルが、やがては白塗りにメイクし、そして白い皮膚で顔を覆ってゆくことを。そう、ゾンビ映画の流行と発展の歴史は、人々の身体感覚が、深く肉体に根付いた血から、操作可能な表面的な皮膚の上へと移ってゆく歴史でもあるのだ。80年代のVHS文化と共に民主化したゾンビ映画において、人々が気軽にメイクをしてゾンビになったように、いま、われわれは様々なレベルでの整形手術と共に生き、あるいはスマホの画面(タッチスクリーン)という皮膚の延長を携え、またあるいは『アナ雪』のCGキャラクター――皮膚(テクスチャ)しか持たない人間――に“深い”共感を寄せる。そこでもう一度、古典的なゾンビ映画が突き付けてきた問いを問おう。われわれは、どこまで人間で、どこまでゾンビなのだろう? そして、ゾンビであってはなぜいけないのだろう? ゾンビに残された生とは、どのような生なのだろう?