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ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』の語りにおける省略と分裂症的持続

 たまにはフランスの文学を論じたものも。

 

「醜いな!」とロバンソンはぼくに注意を促した。「俺はあの死体という奴は好かんよ…」

「それより気になるじゃないか」とぼくは返した。「つまりね、あの死体は君に似ているじゃないか。君の鼻と同じ長い鼻をしていて、そして君、君はあの死体と若さで比べて大差ないぜ…」

「お前にそう見えるものは、疲労によるものでな、どうしてもみんな互いに同じようになってくるのさ、しかし、お前が俺の昔を見ていればなあ…日曜日になるといつも自転車に乗っていたころ!…美青年だったさ! ふくらはぎがあったんだぜ、おい! スポーツさ、わかるか! 腿肉までデカくしてくれるのさ…」

 ぼくたちは出た。死体を眺めるために点けたマッチは消えてしまっていた。

「なあ、遅すぎたのさ、わかるだろ!…」

 灰色と緑の一筋がもう遠くのほう、町の端のところで、夜の中に丘の頂の輪郭を強めていた。陽の光だ! 一日多く! 一日少なく! 他の日を切り抜けてきたように、またあれを切り抜けようと試みなければならなかった、日々、あの様々な円がますます狭くなってゆき、一斉射撃の炸裂音と弾道ですっかりはち切れそうな日々を。

「このあたりにまた帰ってこないか、また今度、夜にさ?」ぼくが出ていこうとしていると彼が訊ねた。

「今度の夜なんてないよ、おい君!…じゃあ君は自分のことを将軍と思っているんだな!」

「俺はな、俺はもうなにも考えないことにしたのさ」と彼は結局言うのだった…「なんにもさ、わかるだろ!…死なないようにと考える…それで十分さ…自分に言うんだ、稼いだ一日、でいつもまた次の一日さ!」

「まちがいないね…じゃあまたな、な、ツキを願うよ!…」

「お前にもツキを! たぶんまた会うだろうよ!」

 ぼくらはそれぞれ戦争の中へと帰っていった。それから、いろんなことがあり、またそれからいろんなことがあり、今はそれを語ってみせるのは簡単なことではない、なぜならきょうびのやつらはもうそういったことを理解しないから。

(Louis-Ferdinand Céline, Voyage au bout de la nuit, Gallimard 2000. pp.46-47 私訳)

 

 ルイ=フェリディナン・セリーヌの『夜の果てへの旅』は、第一次大戦に参加することから始まり、その序盤で語りに落とされた幻滅の影は最後まで抜けきることなく持続する。しかし、戦争について直接語られる分量が小説の大部分を占めるといったわけではけっしてない。厳密な規則によって戦争描写や残酷描写が省かれているとも思えないのだが(実際、きわめてルーズな形で、あっさりと残酷な光景が描かれもする)、しかし、だらだらと地べたを這うように何もかもを語り続けるような語りの印象とはうらはらに、この小説にはいくつかのはっきりとした語りの省略がある。

 上に見たような箇所であれば、語り手によってその原因は読者からの理解されなさということになっているわけだが、より大きく見れば、戦争体験の語りえなさ、という一般的なテーマに、その語りえなさの原因が何であれ繋がるであろう。セリーヌの一般的な小説を逸脱したような文体、あるいは物語構造も、普通の小説としては、普通の語りによっては、語れない、といったことを原因として見ることができるのではないか。

 モダニスト・アンダーステートメントのさまざまな戦略的目的、またその効果がそれぞれどのようなものであったのかはさておき、第一次戦争体験を語る上で省略の技法を使った小説家の例としてさしあたり誰しもが思いつくアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)をここで補助線に導入してみよう。最初期の小説では特に戦争に対する直接の描写を厳密に避けた彼であるが、やがて『武器よさらば(A Farewell to Arms)』などにおいては、彼は戦争について語り始める。一方でその語り手は、「神聖な、とか、栄光ある、とか、犠牲、とか、そんな言葉や、むだな表現に、ぼくはいつも気まずい思いをした」、あるいは、「村の名前や道路の番号、川の名前や連帯の番号に日付といった具体的なものに比べると、栄光、名誉、勇気、神聖、とかいった抽象的な言葉は、卑猥(obscene)だった」と語ってみせる。ひとを戦争に駆り立てるこのような抽象的な形容詞に関する呪いは、『夜の果てへの旅』においてもしばしば見受けられるし、obsceneといった感覚はまさにこの小説に満ちている感覚のひとつであるように思われる。いわば、総力戦となった第一次大戦によって、人々は言語(とくにヘミングウェイが避けようとしたのは形容詞であり、抽象語である)が共同体によって汚染されるものであるということ、そのような言語によって駆動される物語が共同体のイデオロギーに奉仕してしまうものであったりすることに自覚的にならざるを得ず、したがって、作家の言語ももはや素朴な美しい物語へと奉仕するスムーズなものであることをやめ、物語ることに対するさまざまな断念や抑制、使用する言語域に対する意識が以前とは違う影を落とされたものとならざるを得なかったと言えるのではないか。この点に関して、第一次大戦によってセリーヌヘミングウェイが置かれた語りの立場というのはさしあたり似ていると言えるかもしれない。じつに、『夜の果てへの旅』の末尾においては、ロバンソンが死んだ夜が明け、陽がまた昇り(The Sun Also Rises)さえするのだ。

 しかしその一方で、形容詞を排して具体的なものによって語ろうとし、「形容詞を信用するな」と書いたヘミングウェイに対し、セリーヌの(バルダミュの語りの)文章語と俗語が雑多にないまぜになった文体はあくまでもはるかに饒舌であり、そこには必ずしも戦時中のフランスという共同体に奉仕するものではないにせよ、形容詞が頻出する。ここでその形容詞をさしあたり2分して、個人的な身体感覚に根付いたネガティブな形容詞と、彼がさまざまに渡り歩く様々な舞台において用いられている言語域をさりげなく自動的に受け入れて用いる形容詞とに区別してみるとするならば、前者はいわば小説全体を通じて展開される、ある種の私的な呪詛の文体を作り出すものとなっており(後述するが、またさらに世界が腐敗し、病んでいるといったビジョンへとつながってゆきもし)、後者は、バルダミュが、個々の舞台を通じて、それぞれ、しかし全面的に展開される言語的な汚染に、半ばみずから積極的に、そして半ば無気力に、感染してゆくということをあらわしている。語りでなく物語内の行動の面から見ても、彼は場面場面において、戦争(なりなんなり)に嬉々として奉仕している人物たちに対して、それらの人物よりうまく甘い言葉を饒舌に語ってみせ、最終的には常に次の場所へと逃げ出すにせよ、バルダミュはとりあえずさまざまな場所に紛れこんでみせるのではなかったか。

 バルダミュにこのような積極的な、あるいは無気力な感染を可能にするもの、あるいは強いるものとは、世界に対する決定的に全面的なビジョンである。ヘミングウェイであれば、世界の汚染を避け、禁欲的な語りによって避難できる何らかの立場が残されていたのかもしれない(男性性であれなんであれ、セリーヌが信じることをしなかったそれが何だったのかというのも興味深い問題ではあるが、本稿ではさしあたりどうでもよい)。バルダミュの語りは、それが彼の入り込む様々な社会的な場面ごとでどのようなものになっているにせよ、常に「人間などというものはしょせんこういうものだ」といったタイプのものになっている。さまざまに登場する個々のキャラクターが、近代小説的な自我、「内面」を大切にして描かれているとはとても言えず、むしろ、さまざまな社会環境におけるさまざまな人物を使い捨て、ある全面的な腐敗、病、疲弊、衰退といったビジョンが描き出されるのだ。一方で例えば、近代小説的な個人の自我を差し引き、社会のさまざまな環境において展開される人間の本性を探究するという点においては同様である自然主義と比較して見ると、『夜の果てへの旅』においては、いわゆる自然主義においてと比べて、人間の本性と環境の間の葛藤がきわめてなしくずしの状態にあることがわかるだろう。あるいはまた、バルダミュはさまざまな環境において人間を観察し、煎じ詰めれば人間には以下のようなタイプしかない、といった言い方をするのだが、そこで持ち出される「本性」としてのタイプ分けも、たとえば太って病むか痩せて病むか、といったさほど重要性を持たないと感じられるように書かれたタイプ分けであることがわかる。バルダミュの呪詛に満ちた語りは、あらゆる環境の差、あらゆる人間の本性のタイプの差を貫き、小説全体を通じて環境も人間もすべて腐敗し病んでいく、病んでいる、という全面的なビジョンをその旅ごとに推し広げてゆく(あるいはこれはフランス共同体の中、あるいはその汚染が入り込んでいる植民地などに限った話かもしれず、アメリカにおいては特に環境の面において微妙に違うものが出てきているような気もするのだが、ここでは措く)。上の引用部でロバンソンが語ってみせるように、「疲弊」においては、ある深い腐敗状態においては、なにもかもが互いに似通ってゆくのであり、その腐敗はあらゆる社会環境に忍び込んでおり、あるいはまたあらゆる人間の本性から時とともに現れてくる。そのような世界では、語り手だけが逃れうるような避難場所、あるいは到達すべき地点といったものはどこにもない。

 さて以上のように、バルダミュは、常に分裂症的に移動を続け、それぞれの場面に感染しながら、病んだ語りによって病んだ世界を呪い続ける。一方で、彼がそのような呪詛を続けるようなことができる語りの位置が存在するということは、あるいは病んだ世界を観察し、場合によっては積極的に他の人間よりうまくそれに自ら感染してみせることができるということは、先に述べたことと矛盾するようではあるが、その語りのうちにある批評的な距離が孕まれていることも示すように思われる。常に感染し続けながら、同時にある距離を保つバルダミュの語りは、どのような位置からのものなのか。

 第一に、そもそもバルダミュとはそのような観察眼の持ち主であり、小説内の行動に関する面においては、彼の感染はあくまでもその場その場を生き抜くためにその観察を利用しながら取らざるを得ない戦略的な行為であるということができる。彼はおおよその場面においてその場の他の人物たちに比べても深く精神的に病み無気力なのであり、より病んだ地点から、それぞれの社会環境における相対的にそこそこ病んだ人々の病み方を診断する。またさらに、複数の社会状況を移り渡って、ということに関しては、無気力でありながらにして彼がなぜか続ける絶え間ない移動、旅そのものが、彼の語りに批評的な距離を与えているともいえよう。最終的には自らを巻き込む全面的な腐敗、病気のなかにありつつも、それぞれの環境はそれぞれの病気のタイプを形成しており、つねにその外から訪れることによって医者バルダミュはいくぶんの距離を持ってそれを診断することになる。

 そして最後に、この小説の、なし崩しな結末ではあれいちおう存在する旅の終わりという筋の断たれ方、あるいは逆にそこまでの持続を支えるものとは何かということに関して決定的に重要だと思われるのが、ロバンソンの存在である。半ば超人間的な偶然とともにバルダミュの旅につきまとうこの男は、一種の分身のようなものとして見て取ることができよう。彼はバルダミュと同様、常に移動を続ける。そしてそれぞれの場面において、バルダミュと比較してより深く病むことで相対的にうまく環境に適応したり、あるいはまた別種の病み方、より浅い病み方により環境から弾かれたりする。この常につきまとい、決して無視することができない分身とバルダミュの間にある、微妙で些細な相対的な病状の差が、バルダミュが病気を診断し呪い続ける語りのダイナミズムを支える一つの力学を生み出しているようにおもわれる。ロバンソンとバルダミュは、常に分身として存在し、そして常にどちらかがより病み、より環境に適応できない。そして場合によってどちらがより病んでいるかがランダムに交替することによって、この小説は、バルダミュが「ある究極的な腐敗」に向かう、あるいはその腐敗から脱走してゆく、といった発展的、単線的な展開を避け、互いが互いを追い、互いが互いから逃げるような半ば分裂症的な語りの持続を、そして小説世界内における分裂症的な移動、旅をそもそも可能にするのである。したがって、些細なドラマの決着として訪れるバルダミュの唐突な死によって、小説に決定的な結構を、ある芸術的な完成を決して付けぬまま、なしくずしに数歩よろけながら語りは終わってしまうことになり、もう何も言うことはない、という運びになるのだ。

 以上で見たように、セリーヌ=バルダミュによる語りは、第一次大戦の経験をもとにし、モダニスト・アンダーステートメントを使用しながらも、ある安定した語りの立場を持ったり、芸術的、小説的な完成や、無意識といった新たな人間の領域に達したりといったことをしない。彼の語りは文章語と俗語をないまぜにし、常に共同体の語りにいくぶん感染してみせ、世界を全面的に浸すある病気のどこまでも内部にとどまって、肉体感覚と共に自分を含んだ世界への呪詛を吐きながらも、どこかに批評的な距離を残している。その矛盾を解決する虚構的な仕掛けとして、ロバンソンが主人公の分身として存在するということは、語りを、そして旅を、そもそも可能にする条件として組み込まれているのではないか。