ウラジーミル・ナボコフ「記号と象徴」と意味の牢獄

 アメリカのポストモダン文学を論じるサンプルになるかなあとたまに後輩に読んでもらったりするので、いちおう…。これも学部のときの小文。

 

 本当にしたかったこととは、彼の世界に穴を開けて逃げ出すことだったのだ。(599)

 

 「言及強迫」、ハーマン・ブリックはそう呼んでいる。この極めて珍しい事例において、患者は、彼の周りで起こっている全てのことが背後に彼の人間存在についての言及を隠し持っているものだと想像するのだ。(599)

 (“Signs and Symbols” by Vladimir Nabokov (1948) 私訳)

 

 ナボコフをはじめにアメリカ現代作家を扱うCity of Words(『言語の都市』)の序論において、Tony Tannerは、ソール・ベロー、ウィリアム・バロウズノーマン・メイラー、ジェームズ・パーディらの作品に共通して表れるゼリー(ないしゼリーフィッシュ、粘土)のモチーフに着目している。そしてそのゼリーというモチーフにより、人を束縛するものである言語や社会などの意味システムから逃れ、しかし当然自己や意味を解体してしまうものでもある原形質のようなものが示されていると読み解いてみせる。本短編内でこの“jellies”がさしあたり適当なプレゼントとして選ばれてしまう“referential mania”な息子とは、まさに自己と意味の牢獄に囚われ、そこからの脱出を願うものにほかならない。しかし彼が囚われている意味の牢獄は、たとえばトニー・タナーがアメリカの作家が共通して意識していると言う、普遍的な意味システムよりも、どこか過剰であり、またわずかにその性格を異にしているように思われる。その性格の差を、さしあたり本稿ではナボコフのメタフィクショナルな目論見と、亡命の結果、そして亡命の原因に関して読み解く。

 あらゆる物事の背後に彼自身への言及という意味を読み取ってしまう息子という形象は、流通可能な意味を支える一般的なものとしてあるべき意味システムが不調をきたし、にもかかわらず意味を読み取らなくてはならない人間が陥るパラノイア状況を示す。むろんこの意味システムの不調とそれに伴うパラノイア状況は、社会全体を覆う単一の意味システムが崩壊したポストモダン状況云々といった観点からみれば、我々皆がつねにさらされているはずのものであるが、この短編においては、まず亡命者である両親の姿を捉えることがその意味の把握に必要となる。

 息子に関して“totally inaccessible to normal minds”(601) という回想をする母親は、そしてその夫もまた、当然息子との間にコミュニケーションができない。冒頭において息子の病院に向かう彼らが乗る電車は“lost its life current between two stations”となり、彼らは“could hear nothing but the dutiful beating of one’s heart and rustling of newspapers”なのだし、バスが来たと思えば“crammed with garrulous high school children”となっている(598)。読者はここ冒頭からすでに、両親から息子へのコミュニケーションの回路が途切れる(そして意味を読めない単調さのみが残る)か、あるいは何か届くものがあるとしても“garrulous”=読み取りうる意味の過剰による意味の失効状態があるのみだという印象を与えられるのだが、この二つは単一の意味システムの崩壊という点に関すれば同じことである。しかし、夫婦がコミュニケーションを行えないのは息子に対してのみではない。彼らに関する描写を以下浚って見る。彼らの母語ではない英語を喋っているのであろう高校生たちでひしめくバスに乗らないだけではなく、母国では一定の地位を占めていたが、いまはめったに会わない兄弟に依存して生活を送る夫(598)、届けられるナースは人違いで、現実の歩行者を見ても母国の親類のことを思い出すのみの妻 (599)、二度続けて“in silence”と述べられる状態で、入れ歯をはずし(=喋る口が奪われる)、ロシア語の新聞を読む夫、ヨーロッパ亡命時代のアルバムやカードをひたすらめくり(600)、もはや“all living”が“endless waves of pain”といったものしか“mean”しないと考える妻(“undulation of things”の意味を読む息子の姿の陰画のように感じられる)(601)、間違い電話(間違って届けられるメッセージというだけでなく、間違い電話ですよ、と妻が説明するにも関わらず二度目(ないし三度目?)がかかってくるという点で二重の意味でコミュニケーションがエラーを起こしているもの)。夫婦が(アメリカの)現実に溶け込めていない、そこにおける意味システムの内部でコミュニケーションを行えていないということは以上から明白である。

 もちろん、彼らはロシア人であり、ヨーロッパ人なのであるから、それだけでアメリカに馴染めないということは程度の差こそあれ当然だという見識もありえるかもしれない。しかし彼らは亡命者なのだった。彼らがその内に生れ落ちたロシア、ヨーロッパからは、経済的政治的な理由から逃れねばならなかったのだ(“until the Germans put her to death, together with all the people she had worried about”(601) とホロコーストへの言及まである)。彼らは(ある程度)自然に機能するはずの意味システムを奪われ、別の意味システムの中へと追いやられた人間なのだ。ここにおいて息子の“referential mania”も新たに意味を帯びる。粛清期ソ連ナチスドイツに代表される国家のありようとは、単一の意味システムを国内に広げ、個人に意味を押し付けて排斥したりするものであり、“conspiracy”により排斥を受ける“personality and existence”は正しく“spies”“detached observer”を恐れねばならない(599)。そしてそのような状況から“tear a hole in his world and escape”(599) した先には、息子にとってはまさしく窓から飛び出ての死があるわけだが、夫婦にとっては、まさにアメリカでの現状があったというわけだ。押し付けられた意味システムから逃れ、自然な意味システムを失い、馴染まない意味システムとともに生きねばならないのが亡命者の現実であり、意味システムが複数化し恣意化した状況下では、止まった電車内の雑音のような意味の欠如、あるいはまたもや“garrulous”で“referential mania”的意味の過剰が起こる。それらは亡命者にとっては抽象的な思考実験でも、時代精神のモデルでもなく、現実の生活なのだ。

 短編の末尾において彼らの前で鳴っている電話は何を知らせるものなのか。二度の間違い電話とそれに対する適切な対応、そして息子へのプレゼントとして用意された意味システムから逃れうるはずの原形質であるゼリーにもやはり何らかの記号として押し付けられてある味のラベルを読み取ってしまう夫の姿(しかし彼がそこから読み取りえた意味は書かれることがなく、読者はその「意味」にまたしても正しくは不可能な解釈を加えねばならないのだが)の後で、背後に何かを秘めた電話が鳴る。間違い電話への正しく思われる応答の後であるため、夫婦は当然ここで息子の様態の悪化や自殺の成功を知らせるニュースを読み取ってしまうであろう。ここにおいて、まさに息子に関する“a veiled reference to his personality and existence”(599) としての電話が夫婦に届けられており、夫婦が息子と同様の恐怖に満ちた意味の牢獄に閉じ込められて恐怖しているという姿が、読者の意識にまるで息子から夫婦へと“referential mania”が伝染するかのようにして立ち上がる。だが、この伝染は夫婦で止まる物ではない。結局のところ、この電話が息子の死を意味するものなのか、あるいは3度目の間違い電話なのかという意味を読み取り決定するのは読者なのである。そして専制的な読者がここで「息子の死」という、ある程度妥当に思われてしまう自分の読み取った意味を、テキストという国家に押し付けることで、実に我々は息子を殺すこととなる。あるいは逆に電話に対し特定の読み取りをしないとすれば、我々読者が直面するのは(二つは同じことだが)短編を支配する意味の欠如か、あるいは何もかもを意味しうる電話という記号であるということになる。ナボコフは実にここにおいて、亡命者の混乱と苦悩を、読者に形式内容両面において追体験させることに成功する。