KAT-TUNとHey! Say! JUMPの美学とその時代――「崇高」と「美」か、ふたつの「崇高」か?

先日、『好きか嫌いか言う時間』というTBSの番組に、わたしがジャニーズの話をするVTRを流すので、スタジオでそれにコメントをしてくれ、と言われて出てきたのですが、

わたしが話のキモだと思っていた箇所は編集でカットになっていて笑、さらに、スタジオでは話の内容ではなく、「おまえ、話し方キモすぎね?!」といった、司会のかたたちからのコメントに応対するのに必死だった(笑)ために、いちおう以下に話の全貌を書いておきます…(けっこうおもしろい話だとおもうんですよね…)。

念のために言っておきますが、これはKAT-TUNHey! Say! JUMPのどちらがいいという話ではなく、あるいは古いものはダメとかいうことでも当然なく(初期のKAT-TUNがよく今のKAT-TUNはダメとかいうことでももちろんなく)、どちらにも違う良さがあって、その良さの違いはいったいなんなのか、という話です(先日のKAT-TUNHey! Say! JUMPの合コンとか最高でした)。またあくまでも全体的な傾向としての話(つまり極論)であり、またある特殊な切り口からでの話でしかない(①実際にはグループ自体を比較しているのではなくグループの見せ方、演出を比較している、②社会の動きについて考えているために、おおむね「どのように売れているか」といった話になるが、もちろん、売れるもの=いいもの、などということもない)ということもお断りしておきます。

セクゾンに関しては現状セクチャンやsexy寺修行、俺たちの湯けむりSexyバスツアーといったものを見てヘラヘラしているばかりで頭が回りませんが、この論には収まらない気がします。

(※追記 意外と閲覧があってけっこうビビっています…。自分では勇気がなくて実際に放送されたものを観ていないのですが、ファンの方の気分を害してしまっておりましたら申し訳ありません…。もともと飲み会での与太話だった(なので自分ではこれでも笑いを意識しています…)ものにバラエティのノリで作った話なので話半分に読んでください…。面白いと思ってくだされば幸いです。)

 

  

1.「崇高」と「美」?

a.時代の欲望に感応するジャニーズ

まず、ジャニーズは、時代の変化に対して、わりと素直に対応するものだと考えてみよう。

ジャニーズは、たとえばつんくの率いるハロプロのように(あるいは秋元康の率いるAKBグループのように?)強い作家性を持った個人がグループの見せ方、曲の方針を決めるということがない。曲はその時々で外注されるのだし、(どの程度の権限をどのような分野に関して持っているのかわからないが)トップを取っているジャニー喜多川は、とにかく男の子が好きなのであって、その欲望の強さにくらべれば、その男の子たちがどのように演出されて作品として世に出るかという関心は相対的に低いもののように思われる。その一方で、ジャニーズは男性アイドルにおいてほぼ寡占状態であるために、社会全体を顧客とし、そしてつねに世代交代する顧客層のニーズに応えなくてはならない。したがって作家性はそもそも必要とされてもいないのだし、作家性がないからこそ、そこには鋭敏に社会の無意識的な欲望と対話する、いわば臨床的な作品が生まれることになるのではないか。

 

b.KAT-TUNHey! Say! JUMP

このように考えたとき、近年であれば特にKAT-TUNの初期と、Hey! Say! JUMPとが、ある大きな美学的な変化として思い浮かぶのではないか。さしあたり著述を先取りして言ってしまおう。KAT-TUNにはこちらが彼らの素晴らしさにゾッとして動揺してしまうような瞬間があり、これは美学的用語で言えば「崇高」の念を起こすもののようにおもわれる。一方で、Hey! Say! JUMPにおいては、われわれは比較的平静な気持ちで彼らの映像を眺め、かわいいなあ、とニコニコする。そのとき、美学的用語で言えば、形式的に調和の取れた「美」的なものがHey! Say! JUMPに体現されているのではないか。…などといきなり言っても美学に触れていない人々には意味不明だろうので、以下ですこし具体的に考えてみよう。

 KAT-TUNの初期の時代を考えるのならば、やはりさしあたり、やがて脱退することになる赤西仁田中聖のことを考えるのがいいのではないか。赤西のザラザラと掠れた声、田中のザラザラした坊主頭のことを。あるいはKAT-TUNに多かった、謎の布がぼろぼろと体にまとわりつくような衣装のことを。そして『ごくせん2』のことを。

以上のすべてから感じられるのは、社会とぶつかって傷つく若い肉体だ。いやむしろ、「アスファルトを蹴り飛ばして」、「ギリギリで生きる」といったような、(アスファルトのように)硬い、オトナの社会とぶつかり合う軋轢の境界面で発生する摩擦を見せることでこそ、その向こう側に存在する(はずの)若くみずみずしい肉体の身体性が演出されているといってよい。『ごくせん2』ではザラつく傷から血を滲ませ、何かとギリギリで戦って身をすり減らしているかのような謎の布を纏い、田中は坊主で、赤西が掠れた声を涸らして歌うことによってこそ、硬く揺るぎない社会がどうしても馴致しきることはできない、しかし社会の中で全面的に花開くこともできない、脆く、あやうく、貴い若者の肉体性が遡行的に演出されるのだ。その圧倒的な「若さ」と肉体性の力を感じたときに、われわれはたじろぎ、そのエロティックさに息をのむことになる。

一方で、Hey! Say! JUMPを見ても、われわれはたじろがない。Hey! Say! JUMPにおいて、「若さ」は、KAT-TUNと比べてはるかに、「かわいさ」と結びつく。そのかわいさも、きわめて純度が高いものであり、たとえば「キモかわいい」といったものではなく、調和と均整が取れたかわいさである。つるつるとしたクリーンな衣装をまとったHey! Say! JUMPの子たちは、いわば、われわれがあらかじめ持っている「かわいい」の形式、「かわいい」のイメージにぴったりと収まってくれることで、いつも安心して眺めることのできる存在なのだ(KAT-TUNのように「東京の地下50メートルでライブ!」といったことをするHey! Say! JUMPが想像できるだろうか?笑 Hey! Say! JUMPはそのような社会の「深み(50m)」の向こう側にあるヤバさといったものを欠いたつるつるした表面を持つイメージとしてかわいいのではないだろうか?)。

 

c.「美」と「崇高」

ここで一度、「美」と「崇高」という用語を説明してここに導入してみよう。

ここで言われている「美」と「崇高」とは、必ずしも一般的な用語ではなく、美学の用語である(したがって、例えば一般的に「美しい」と言われるものの中にも、「美」ではなく「崇高」のほうに属するものが大いにありうる)。

この概念は、18世紀の哲学者、エドマンド・バークイマヌエル・カントにはじまり、ポストモダンの思想家フランソワ・リオタールにまで豊かな変奏とともに引き継がれるものであるが、おおむね共通する点を雑に説明すると、だいたい以下のようなものになる。

「美」とは、あらかじめ存在する形式的な調和に収まっているものである。われわれは平静な心持ちでそれを見て楽しむ。あらかじめ存在する形式的な調和、を「趣味」と言い替えるならば、それは「趣味がいいねえ」といった言葉でのんびりと余裕を持って評価されるものだとしてもよい。例えば、イギリスの庭園であったり、イギリスのなだらかな丘に満ちた田園風景であったりを思い浮かべてくれればよい。

一方で、「崇高」とは、そのような形式的な調和に収めて見ることができず、ひとの理解に収まりきらず、越えてしまうようなものに掻き立てられる感情である。たとえば、大きな雷や、ドイツの険しくそびえる山岳、船を一瞬で飲み込む大渦巻きといったものを見たとき、人間はそこに自分たちの理解を越えたものを感じて、動揺しながらも、その理解できないものの背後に感じられるなにか凄まじいものにある種の感動を覚えてしまう。

このような区分に従うのならば、すでにKAT-TUNHey! Say! JUMPに関して述べたことから、Hey! Say! JUMPは「かわいい」の「形式」に収まることを通して「美」のモードに従って成立しているアイドルグループであり、一方でKAT-TUNは社会の枠組みと激しくぶつかり合いながら、その向こうに成立する、なんだかスゴい「若い肉体性」が暗示される、「崇高」のモードに従って成立しているアイドルグループであることがわかるだろう。

まず言えるのは、このように「なんだかよくわからないがスゴい」ものから「手の内におさまるかわいい」ものへという時代の変遷は、おそらくジャニーズ全般に関して言えることだ、ということだ。年齢に伴う落ち着きというのと切り離せないとはいえ、嵐も、かつてのヤンキー路線からどんどんマイルドでクリーンな様相にシフトしてゆくことでブレイクし、KAT-TUNもNEWSも、尖った(尖った美しさを持った)人々の脱退を経て現在の形になっている。関ジャニ∞にしても、今の楽しいバラエティ路線に喜ぶ多くのファンが、かつてのちょっとヤンキーっぽいヒリつきのようなものを求めているとはあまり思えない。さしあたり、ひとびとは、「なんだかスゴいアイドル」に動揺しながら打ち震えることを求めるのをやめ、「安心できるかわいいアイドル」を求めるようになった、という時代の変化が起こった、ということは、実感としてわかってもらえるのではないだろうか。

 

2.Hey! Say! JUMPの「数学的崇高」

ここからが話のキモであり(しかしテレビ収録のVTRでは完全にこの後の話はカットされていた…笑)、「崇高」と「美」という区分を持ち出した理由でもあるのだが、筆者が主張したいのは、じつはHey! Say! JUMPは「美」に収まる、安心して見ることができる存在だということではない。

むしろ、Hey! Say! JUMPのプロモーションヴィデオを観ているとき、われわれはKAT-TUNには存在しなかった、別種の「崇高」に、じつは動揺しつつ感動しているのではないか、ということなのだ。具体的に説明しよう。

 

a.増殖するHey! Say! JUMP

Hey! Say! JUMPのPVにおいては、人間が増殖する。メンバーの人数が10人から12人から15人からと増えてゆくということではなく、たとえば伊野尾慧なら伊野尾慧がひとつのPVに複数人登場するのだ。わかりやすいのはセカンドシングル((「Dreams Come True」であり、ここでは一つの画面内で同じメンバーが分裂し、画面上にひしめいてフラフープをしたり、ボールを投げ合ったりする。また「Come On A My House」では、カメラがずっと移動してゆき、複数の部屋を横切り続けるのだが、それぞれの部屋にメンバーが全員揃っており、無限に続く部屋のそれぞれに無限のメンバーがいることが感じられる。あるいは「Romeo & Juliet」という曲においては、歌い出しでひとりのメンバーが「僕はRomeo」と言うと、即座に次のメンバーが「僕もRomeo」と続き、さらに次のメンバーが「僕がRomeo」と歌いながら登場する。以上のような人間の無限増殖を見たとき、われわれはこころのどこかで間違いなくかすかな動揺を感じているはずだ。生きた血肉を備えた人間はこれほど安易に増殖などしないはずなのだ。そして人間がひとつの空間において増殖してしまうとき、あるいは複数の空間をまたいで万華鏡のように増え続けてしまうとき、そこでは血肉を備え、名前や個性を持つ「人間」という観念だけでなく、空間もまた壊れてしまっているのだ。

Hey! Say! JUMPの増殖を観たときに受ける感覚は、たとえばアンディ・ウォーホルシルクスクリーンマリリン・モンロー毛沢東肖像画が増殖するのを見たときの感覚にとてもよく似ている。しかしすでに言ったように、そこには批評的な作家性などなく、なにも現代美術的なコンセプトで作られているわけではない。そもそもウォーホル自身が、(どこまでがそれ自体批評的な身振りなのかはさておき)彼がシルクスクリーンで有名人の肖像画を増殖させる理由に関して、「有名人がたくさんいたらうれしいだろう?」と語っていたではないか。そう、Hey! Say! JUMPの子たちが増殖するのも、ただ単に、かわいい子がたくさんいたらうれしいな、という思いに応えているからなのだ。

しかし同時に、その思いに応えるのが「メンバーが増殖する」という手法になるためには、やはりそもそも、ウォーホルの有名人たちが血肉を備えた生身の人間というよりは、大衆に浸透した「イメージ」にすぎなかったために増殖していたのと同様に、Hey! Say! JUMPの子たちがKAT-TUNの子たちにくらべて、圧倒的に扱いやすく美しい、かわいさの「イメージ」となっていたからだということも見過ごせない。

整理しよう。つまり、Hey! Say! JUMPの子たちは、KAT-TUNの子たちと比べて、生身の若い男子のスゴみのある「崇高」な肉体性といったものが希薄で、かわいく扱いやすい手の内に収まる「美」的なイメージとなっている。しかしその「美」的化はある臨界点を越え、あまりに扱いやすいイメージは増殖を始める。そのとき、個々のメンバーのイメージは「美」的なものに収まりつづけながらも、現れてくる作品自体には、なにかギョッとする「崇高」性の契機が生まれてしまう。そしてその崇高性は、KAT-TUNのような個々のメンバーの肉体を通して「崇高」性が立ち現れるのとは全く別のものだと感じられるだろう。

 

b.2種の崇高

この二つの明白に別種の「崇高」をどう考えたらよいのか。ここでわれわれは、ふたたび「美」と「崇高」の概念を生んだ最初期のひとりである、イマヌエル・カントへと立ち戻る。そして、「力学的崇高」と「数学的崇高」という二つの区分をそこに発見するだろう。

雑に分けてしまえば、カントの区分では、「力学的崇高」とは、「凄まじい威力」によって引き起こされる感覚であり、「数学的崇高」とは「凄まじい広さ」によって引き起こされる感覚だとしてよいようにおもう。

(以下、細かい説明や、ある対象から崇高が引き起こされることとはどういうことか、といったことに関する哲学的、カント的な議論は省くが、)たとえば、大渦巻きや空をつんざく雷を見て、あれに巻き込まれれば人間など塵のようなものだ、と思ったときに、人間はその威力に崇高を感じる。そのとき、ひとは自分たちには制御できず、理解もできないある力が自然現象の背後にあることを感じて、それに動揺しながらも息を飲んで感動するということになる。これが「力学的崇高」である。

KAT-TUNの「崇高」は、おそらくこの「力学的崇高」にあたる。ひとは、KAT-TUNのメンバーの、社会にぶつかって傷つき血を流す肉体を見て、その背後にとらえきれないほど貴い「若さ」をぼんやり感じ、息を飲んで感動する。

「数学的崇高」も、捉えきれず、理解ができないようなものに対する畏敬の念であるという点は同様である。しかし違うのは、数学的崇高は必ずしも威力などを必要としない。カントが例に出しているのは、たとえばピラミッドであるが、われわれはピラミッドに面して、ひとつひとつの積まれた石を見ていっても、そのあまりの規模によって、その全体像を捉えることに単純に失敗してしまうのだ。ひとつひとつのものには大したスゴさなどなくても、あまりに多いために、単純にその全体像を捉えきれないために、全体像のことを考えるとなんだかぞっとしてしまうような感覚、これが数学的崇高である。

これは、長らくさまざまな理論家たちによっても、あまり実感の伴わない例だとされて見過ごされてきたジャンルであるが、現代ではむしろ力学的崇高よりも数学的崇高のほうを感じる局面のほうが多いように思われる。たとえば、夜の高速道路を走っていて、ふと知らない街にともる無数の灯りを見て、このひとつひとつに自分と同じように人間が生きているのだ、と思う瞬間に、すこしゾッとしながら感動してしまう瞬間、これが数学的崇高の好例ではないか。

Hey! Say! JUMPのメンバーが増殖するのを観たときに感じられる崇高は、もちろんこちらの数学的崇高にあたる。そしてそのとき、崇高が発生するトリガーとなるのは、(KAT-TUNのような)個々のメンバーのスゴさではない。われわれは際限なく増殖するHey! Say! JUMPを見て、われわれがただかわいいものを求めれば、それにいくらでもかわいいものを返してくれる、自分には捉えきれないほど広大なメディア空間に崇高を感じているのだ。「伊野尾慧 かわいい」で検索すれば、とっくにジャニーズ事務所に準備してもらっていた「かわいい」「伊野尾慧」の「イメージ」が無限に返ってきてしまう、そのどこまでも動物的に過ぎない、批評性もスゴさも欠いた市場原理、メディア空間の目に収めきれない広大さが、結果として崇高性へと繋がってしまっているのだ。

 

c.時代の変化とメディアの変化

このような整理をしたとき、KAT-TUNHey! Say! JUMPの差は、もはや端的に人々の美学的な好みは移り気に変わるよね、といった話では当然なくなる。ここには、メディア環境の変化がはっきりと刻印されてしまっているのだ。

たとえば、ここでKAT-TUNをテレビの時代の最後のアイドルグループであり、Hey! Say! JUMPはネットの時代のアイドルだと考えることもできるのではないか。何曜日の何時から何チャンネルで放送される『ごくせん2』を人々が楽しみに待ち、その相対的に一回性の体験において、血を流す赤西仁の肉体を眺めるとき、その肉体の交換不可能性は、テレビの放送の一回性と切り離せないものだったのかもしれない。そして増殖し、部屋から部屋へと移動するたびに即座にあらわれるHey! Say! JUMPのイメージとは、じつにYoutubeで「Hey! Say! JUMP かわいい」と検索するたびに即座にいくらでも画面上に現れ、動画から動画へと切り替わるたびにそれぞれの動画(=部屋)の中でいつもかわいい姿を見せてくれる、という時代に対応しているのだ。