舞城王太郎『ディスコ探偵水曜日』、『ジョージ・ジョースター』読書会(とその記録)

読書会のお知らせです!

 

開催日時: 3月22日(金) 19:30~22:30
開催場所: ルノアール会議室 新宿区役所横店 4号室

 

課題図書: 舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』(上中下、新潮文庫)&『ジョージ・ジョースター』(集英社

 

(3/23追記)

おかげさまで初の参加者3人も迎え、盛況となりました。

3時間ではまだまだ話足りない、という方も多く、賑やかに議論が進んで非常に楽しい読書会でした。

以下、記憶の限りで僅かながらルポを書きたいと思います。

 

 

①まずトマス・ピンチョンを研究している参加者たちからは、

・メガ・ノヴェルめいたガジェットやキャラクターの詰め込みっぷり、

複数のジャンル小説(探偵小説、SF)を一作品に盛り込みながらそれぞれのジャンル規範(≒「運命」?)の限界を身をもって示すことでそれを乗り越えてゆくようなあり方、

・とりわけ探偵小説的なプロットと関わり、ある種の世界に対する解釈としての誇大妄想(パラノイア)が世界を飲み込んでいってしまうようなあり方

でピンチョンの小説を連想する、との感想が上がり、同時に、

・ピンチョンの小説では個人の巨大な妄想と世界の間にはかならず別の領域(非人称的な「システム」など?)が挟まるのに対し、舞城作品ではどこか個人の解釈行為、「気持ち」の投影のようなものが素直に世界を(開かれた「密室」として?)飲み込んでゆくように見える――

点で、非常に違うものだとやがて思われてきた、といった指摘が出ました。

 

②続いて、10年ほど前、青春時代にかなり熱心に舞城作品を読んでいた読者たちから、舞城作品には

・ミステリのガジェットやSF的な設定を異常に複雑化させてゆく過剰な構築性メタ意識がある

・同時に、その複雑なメタ構造の一番内側には、あるいは様々な階層や構造を貫いて、非常にシンプルで強い「愛」(≒「気持ち」)もある

との指摘がなされ、やはり舞城作品の本質は後者なのではないか、という論点が出されました。

 

③会の中盤、中心部では、今回の課題書であった『ディスコ探偵水曜日』『JORGE JOESTAR』に関する様々な具体的な読解がなされてゆきました。

それぞれ舞城作品内での様々な工夫や意図を読み取る豊かな議論であり、この細部に立ち入った具体的な議論が読書会の華というかもっとも楽しい時間であることはもちろんなのですが、一つ一つを挙げてゆくことは不可能ですので、

やがてその中で徐々(ジョジョ?)に会をつらぬくテーマに沿うものとしてまとまっていったものだけざっくりとまとめますと、

・ある種のジャンル規範をメタ的に捉えることで、人間=キャラクターが越えるべきものとして見定められる「運命」は、「人間賛歌」を自称する『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズにおいても越えるべきものとして描かれている

・「気持ち」「愛」「意思」となどの語で示される、人間が複雑な運命を突破するために用いる武器は、『ジョジョ』でも人間の「黄金の意思」として描かれている

・その他、『ディスコ探偵水曜日』内にも『ジョジョ』的な発想のガジェットがたくさん詰め込まれている

・「密室」と「他者」問題の関わり

・ちょうど「中世日本紀」が『日本書紀』の注釈として、それをかなりトンデモな形で仏教的な世界観から説明しつくそうとして過剰な構築性を抱え込んで異常な書物になったように、舞城作品では流水大説や『ジョジョ』への異常な「愛」によって、作品が肥大化している

といった論点だったように思われます。

議論が落ち着く頃には、舞城王太郎は「VS ジョジョ」の企画が来る前から『ジョジョ』に影響されて対決するように『ディスコ探偵水曜日』を書いていたのでは?といった発言に、なぜか参加者のほとんどが納得していました。

 

④また、シャマラン監督の映画作品との類比もなされ、ある種の同時代的な現象(後期資本主義的なもの)として舞城作品とシャマラン作品を見て取る議論がなされました。

 その一方では、かつてかなり広く熱心に読まれていた舞城作品が、やや存在感を小さくしていることに関しては、当日欠席した人物からのメールによる指摘で、

社会全体の読みのモード、作品(コンテンツ)受容の環境(アーキテクチャ)自体がどんどんメタ的に何か(しばしば過剰にベタなもの)を「ネタ」にして楽しむ、という時代になってきたとき、

舞城作品内部に抱え込まれた過剰なメタ性は、メタ的に「ネタ」を楽しむという環境と微妙に齟齬を起こす躓きのように感じられるようになってしまったのではないか?

という論点が出されました。

 そこからさらにシャマラン作品や、『レディ・プレイヤー1』や『インセプション』、ジョン・バース作品などとの類比が行われ、

これらの作品では複雑な構造が、かえって非常にシンプルな「気持ち」「愛」を中心とするある種古典的な人間観をその奥に良くも悪くも温存しているように思われる、

あるいは別の言い方をすれば、「愛」などはその内実や発生の起源をベタには描かれずに、にもかかわらず「複雑な構造」を貫くようなものとしてその強さが演出される、という形で両者は互いに互いを不可欠なものとする共犯関係にある、という指摘がなされました。

 舞城作品が非常に広く読まれた時代は、しばしば村上春樹に影響を受けた若い作歌群が活躍した時代だとも言われることですし、議論の端々で出ていた村上春樹作品との比較、そこで両作家が打ち出している他者観や倫理観はどのようなものであったのかという論点は、あるいはこのようなあたりから深まるものだったかもしれませんが、残念ながらこのあたりで3時間の会場確保時間が尽きようとしていました。

 

⑤最後に、会主から、舞城作品における「次元」へのこだわりという論点が出されました。

わたしはミステリなどについてさほど詳しくないので、どの程度舞城作品の特異性に関する議論を追えているのかやや怪しいところがあるのですが、

・舞城作品においては事件の状況を俯瞰する(「ビヨンド」?)ような「地図」が図像として文中に挿入されることが異常に多い。これは、三次元的に成り立っている作中世界の次元を二次元に落とすという作業である

・舞城作品におけるとりわけショッキングな事態としては、キャラクター=人間の体が一種の密室として捉えられ、その内部に死体や異物が入っているのが開かれる、という展開がある。これは普通は深みを持つものだとして捉えない身体に深みを見るという点で、次元を上げるような作業である

などなど……といったポイントから、テマティックな論点へと進み、そこからさらに探偵小説の歴史における

ユダヤ的(記号操作(演算)、記号の横滑り的?)なもの

プロテスタント的(深みを探り続ける解釈学的?)なもの

カトリック的(「気持ち」的?)なもの

といった区分の可能性が探られかけましたが、いよいよ時間切れとなりました。

 

⑥最後に、このふたつの小説は「奇書」であったのかどうかですが、

「奇書」の暫定的な3つの定義、 

1.長い

2.つまらない

3.頑張って本気で書いている

の定義を、『ディスコ探偵水曜日』や『JORGE JOESTAR』はそれぞれ流水大説や『ジョジョ』への異常な愛情と、過剰な構築性からすべて満たしているということにより、

めでたく「奇書認定」が下りることとなりました。

 

初参加者の方々を含め、様々な参加者から様々な論点が出され、とても刺激的な会となりました。改めてお礼を申し上げます。