「アナと雪の女王はこう終わるべきだった!」 How Frozen Should Have Ended 和訳

アナと雪の女王に関するすこし面白い動画を見つけたので記事を書きます。

アナと雪の女王にはこういう結末がありえたはずだ! あの映画はおかしい!といったものです。

 


How Frozen Should Have Ended - Reissued - YouTube

 

以下この動画の和訳です。

(冒頭の歌、オリジナルでエルサが愛の力で氷を溶かしていくところのパロディ)「ヘ~イヘイヘイヤ ヘヘヘ~♪ この曲の雰囲気ぜんぜん合ってないよね♪ ライオンキングでも観てるみたいな感じになるよね~♪」 

トロル「これでこの子は大丈夫じゃ…」

エルサ「でも私が魔法をつかえたことを忘れちゃうの?」

父「それがいちばんなんだよ…」

トロル「よくお聞き、エルサ。きみの魔法の力は大きくなる一方だ。

そこには美しさがあるが…同時に大きな危険もあるのだ。

きみはこの力をコントロールできるようにならなくてはならぬ。

恐怖がきみの敵となるだろう」

父「えーっと…つまり僕らはこの子が人のそばにいて安全になるまで一人でお城に閉じ込めておくべきってことですね?」

トロル「何? そんなこと言っておらん 恐ろしい考えだ!」

父「えーっと…じゃあぼくらはこの子がこの子が自分自身を恐れるように教育すればいいんですね?」

トロル「そもそも話を聞いていたのか? わしは、恐怖が、敵だと言ったんだぞ?」

母「えーっと…じゃあこの子が自由にコンプレックスを抱くようになるまで、感情をぜんぶ縛りつけるように教育すればいいんですね? それでこの子がこんな魔法を全部乗り越えられるかどうか待ってみるとか?」

トロル「おぉマジかよあんたらダメな親だな ちがう、わしはそんなことしろなんて全然言っておらん」

父「えーっと…じゃあ…」

トロル「「えーっと」と言うのをやめろ! 口を開くたびにズレたことを言いおって!」

母「隠し通せ、何も感じるな?(コンシール、ドントフィール?)」

トロル「ああもうなんてこった! 答えは「愛」だよ! わかったか??

愛が心を溶かす 真の愛が癒しをもたらす」

父母「………(沈黙)」

トロル「…わかった もう…ついて来い わしが助けになる場所に連れて行ってやる」

 

X-MEN』のプロフェッサーX「やあエルサ 私の名前はチャールズ・エグゼビア 私の学校にようこそ ここは才能に恵まれた若者たちのものだよ」

(おそらく『Xメン』からのパロディ的なスタッフロールの挿入)

キャプション「数年後…」

ミュータントたちとエルサ「(楽しそうに)let it go~♪(...)Here I am~♪」

ウルヴァリン「(一瞬不快そうな顔を見せるがじきノリノリで歌い継いで)

Here I am~ And my claws are gray~♪(そして俺の爪は灰色~) (ストームという名のミュータントを抱き寄せて)This girl's name is Storm~♪(この子の名前はストーム♪)」

ウルヴァリン、乗り気でなさそうな氷のミュータントに歌い継ぎを要求する)

氷のミュータント「当然ながら氷は気にならない(Obviously ice doesn't bother me.)」

アナ・オラフ「イェーイ!」

 

 

ラストの替え歌、

And my claws are gray はオリジナル歌詞の In the light of day からで、最後の ay の音が共通、

This girl's name is Storm は Let the stom rage on から、

Obviously ice doesn't bother me は The cold never bothered me anyway (寒さも気にならないわ)から、

となっています。

 

アナと雪の女王』を観ると、この両親のまぬけさにはけっこう呆れてしまいます。

歌のテンションに任されたままあっさりかわいそうなことに死んでしまうので、両親の害悪さにはあまり注意が行かないようになってはいるのですが。

そもそも、このパロディでは母親がすこしセリフを発しますが、オリジナルの映画では母親にセリフはほとんどありません。

封建的な古い家族を象徴するように、父親にしか発言権がないのです。

 

『XーMEN』のキャラクターが登場するのも、唐突で笑いましたが、真っ当だと言えるのではないでしょうか。

自分もはじめて『アナと雪の女王』をみて(すこし特殊な観方だったかもしれませんが)すぐ、X-MENのことを思い出しました(X-MENのことをさほど好きではないにもかかわらず)。

X-MEN』もまた、ミュータントという、特殊なものを持って生まれてしまったマイノリティが、自分の力や、周りからの迫害に悩んだりするというもののでした。

いつだったかぼうっとテレビで『X-MEN』の映画の放映を観ていると、とつぜん印象的なシーンに出くわしました。

ある箇所で、自分がミュータントだとまだ親に言うことができていないある少年ミュータントの家に、先輩のミュータントたちがいっしょについてゆき、彼の親に「この子はミュータントです」と言いにゆく、という場面がありました。

親はショックを受け、たしか「お前のせいじゃないか」「あなたの教育が悪かったのではないか」「おまえの血筋が悪かったのではないか」といったような言い合いをします。

たしか映画版『X-MEN』はスタッフや役者の多くが同性愛者であり、このシーンは、(そういう意識がある人が観れば、)エルサがLet it goを初めて歌うシーンと同様に、明らかにカムアウトの場面を意識したものです。

親にしづらい「自分がゲイ」だというカムアウトに、先輩たちが付き添うのですが、親は理解が足りず、同性愛を病気のようにとらえ、教育が悪かったせいだ、とか、遺伝的な病気だ、といったふうに子供の前でいいさえしてしまう、というわけです。

 

アナと雪の女王』が同性愛を描いた映画だと言うことを書くかもしれぬ、と予言しておいてずっと書いていないのですが、これはべつに個人の批評力とかがいるものではなく、観る人が観ればおそらくみんながみんな同じ箇所から同じ解釈を導き出すようなものなので、たぶんすでに海外などにはたくさん記事があるのだろうな、日本にもあるだろうな…とおもうと、すこし自分で書くのが億劫です。。。すみません。。。

佐紀ラップに学びて

とつぜんラッパーになろうと思い立ったので、すこし歌詞(リリック)を書いてみました。

Berryz工房のファンを代表(レペゼン)して、素直(リアル)な気持ち(ヴァイブス)を書いてみました。

ということで、深夜にハロプロのおたくさんどうしではじまった突発的なラップバトルの成果を載せておきます。

 

■わたしが考えたラップの歌詞①

子守唄替わりに育った佐紀ラップ

清水佐紀さんはベリーズのキャップ

よろしくセンパイ Girls Growing Up

千奈美が「昼寝」を英語で nap

と言う肌の色まさにボブ・サップ

超HAPPYに気持ちがスナップ

おたくとしての熟練度アップ

オタ友と個別券をスワップ

4square描く遠征マップ

アイドル女王には優勝カップ

 

■わたしが考えたラップの歌詞②

ファースト セカンド つんく♂の歌詞濃い

歌いこなせるメンバーは賢い

聴くたび募る気持ちは「ガチ恋」

だんな様への未来はマジ遠い

心折れてしまったオタクたち多い

でも池袋過ぎても歩く街沿い

次のライブの発表に立ち添い

ナルチカ今度は俺らの街来い

 

■わたしが考えたラップの歌詞③

ライブ前愛の弾丸充填

雄叫び続けてアイドル10年

また嗅ぎ付けた梨沙子ちゃん留年

声変り経て歌声は重低

聞き惚れ気づけば俺たち中年

恋 いとしき季節とうに終戦

寂しく啜るお夜食はにゅうめん

「ベリしかない」と募ってく執念

でも汁で引くナルチカの抽選

死後に夢見るはベリーズ宮殿

 

■わたしが考えたラップの歌詞④

入場前から立ち込める悪臭

取り揃えられたグッズは各種

事務所が行うオタへの搾取

身を削り買ったCDで握手

「個別券足りない!」→オクで落手

恋の呪縛は金食うと学習

Ah Merry-go-round ループは100周

こなすメンバーにCLAP!拍手

 

■わたしが考えたラップの歌詞⑤

心に桜満開に咲くShow

スイッチON もうすぐ幕が開く今日

MCで笑っちゃおうよトークショー

語彙を支える桃子の読書

場内ギャグ100回分の爆笑

もう流れてくる他オタの薄情

楽曲大賞はベリに出す票

 

■わたしが考えたラップの歌詞⑥

彼女と別れていつしか She change

REAL LOVE やり直せる気ぃせんし

引きこもる部屋の薄暗い電気

でもベリを聴けば オレ Be元気

行進曲に乗る頼もしい戦士

僕のヒロインになろうちぃ天使

マジグッドチャンスちょうどいい転機

夏じゃん!見上げる空いい天気

 

 

■わたしが考えたラップの歌詞⑦

ベリの辿ってきた長い道中

初期曲からは漂う児童臭

ギャグ100千奈美ロリロリに「のーにゅー」

でもにょきにょきと成長起動中

徳永須藤夏焼は同級

互いに刺激し合ういい応酬

もうベリの貫録まさに猛獣

幼女どころか大人の美貌級

BOMB BOMB 埋め込むオタクに妄執

資本主義では需要に供給

売れなくなったらM Lineに放流

内心穏やかではない胸中

MC最中絶えない号泣

いつしか I Can't Live Without you

 

■わたしが考えたラップの歌詞⑧

つんくボーイよりも流星ボーイ

スッペシャル・メンバーに正しい好意

梨沙子甘やかす」はベリオタの総意

放任されて来てカーストも上位

管理ずさんな動物園の猛威

ライバルはアンチの空しい行為

夜毎埋め尽くす書き込みの包囲

あぁもう夜が明けるコンを ENJO~Y

 

■わたしが考えたラップの歌詞⑨

続く佐紀ラップの音の合う語呂

ロリコン流れてく 事あるごと

スキャンダル写真シャッター鳴る音

大学行くのさえオタ去る元

「ピリリまでみたいな所あるよ」と

懐かしむ初単独まるごと

メンブレして燃え尽きるマルボロ

Bye Bye またねと流れるカスども

でも逆に魅力感じだす者

21時過ぎて光差す外

千奈美とお揃いで買う春物

衣舞様がエレガントに舞う午後

もう復活ジリリキテルとなる頃

『アナと雪の女王』からカットされた曲、”You are you(「君は君だ」)” 日本語訳

 この曲は、ハンスとアナの曲です。

 2人が自分たちの愛をハイテンションに認め合うLove is an open doorの前に置かれるものであり、ハンスがアナを口説くようなものになっています。

 先に訳した、「ただのスペアじゃない」において、私はスペアじゃない、私はわたしだ、私の気持ちを誰かわかってくれ、と願っていたアナに対して、この歌いかけはほろりとくるものなのだろうなあ、とわかります。

 


6. You're You (Outtake) - Frozen (OST) - YouTube

 

君は君だ

 

ハンス:

他のみんなが歩いて通り抜けていく人生を 君はスキップしていく

そして他のみんなが足元に注意していくとこで 君はたいてい転んでしまう

もちろん、君の髪は完璧じゃないし

そして――ねえその服に付いているのは何?

そうさ、君はどちらかというとおしゃべりで

鼻にはそばかすがいっぱい

 

でも君は君だ きみ きみ

そしてそれがぼくを笑顔にしてくれる

君は君だ きみ きみ

だからまだしばらくそのままでいておくれ

 

アナ:おお、ハンス、あの私…

 

ハンス:(アナのセリフを遮って)

何も言わなくてもいいんだよ 君の心はわかる

君の顔は開いた本みたいで とても正直、ほんもの、リアル

他のみんなはウソをついたり騙したり

互いに押しのけ合うような羽目になって

でも君の心はそういうのじゃない

だから君こそがぼくの愛する女の子

 

君は君だ きみ きみ

このままの君でいつづけてくれとぼくは願う

君は君だ きみ きみ

なんにせよ、これがぼくの言いたいことなんだ

 

 

アナと雪の女王からカットされた曲、”More than just a spare(「ただのスペアじゃない」)”日本語訳

 アナと雪の女王の、本編からは削除された曲をちまちま訳し続けてゆきます。

 

 この曲は、初期段階ではエルサがheir(エア:正当後継者)でアナがそのspare(スペア)として扱われていたことに関する、細かい描写があったことを示すものです。

 実際、完成品の映画本編を見ると、エルサの緻密な人物描写に対して、歌やセリフによりアナの内面描写が途中からがらっと減り、中盤からのアナの行動に共感できるかどうかは、序盤のアナが歌うシーンや、映像自体、映画自体の力に任されていることがよくわかります。もともとはアナとエルサの関係性の描写により時間が割かれていたようです。

 (自分個人は、序盤の諸シーン、細かい表情の動きなどから、十分に2人の関係は描写されており、またアナの行動にいまいち完全には共感できない箇所があったとしても、それはそれでアナと雪の女王の強みになっていると思います。)

 

 エア―スペア、にはじまり、古典的に韻がたくさん踏んであってたのしい曲です。日本語でうまく言葉遊びのように訳出できればよかったのですけど、そうもできないので、あるていどルビを振ってみました。

 


More Than Just A Spare (Outtake) Frozen Lyric Video ...

 

More than just a spare

「ただのスペアじゃない」

 

アナ;スペア…? わたしはただのスペアなの?

 

わたしは町の仲間じゃない 女王に生まれてもない

その中間の無力な誰かさんにすぎない

彼女は先生、スポーツ選手、詩人

わたしはめちゃくちゃな子 知っている

でも誰がそもそもわたしとみんなを比べるだろう

みんなはもちろんわたしがただのスペアだと思ってる

まあ…別にいいけど…。

 

そう、わたしはコートのおまけのボタン

どれかボタンが緩んだ(ルース)

でもボタンにならなくちゃならないとして

なんで使い道(ユース)ないボタンちゃいないの?(っと!

ダサいかもしれないし 優美さ(グレイス)ないない

ときどき顔面(フェイス)しゃっとコケたり

でもこの小さなボタンは空にふさわしい居場所(プレイス)があ

このボタンだって空を飛びたい!

 

待って待って、ボタンは空飛んだりしないわよね、これじゃ意味がわかんないわ

 

それじゃわたしはサビた蹄鉄

誰かの古い納屋の上に吊るされてる(註:たしかお守りとして、蹄鉄を納屋に吊るす習慣があった)

そこにずっとかけられっぱなし

馬に足がもう一本あったらなあ とただ願うだけ

わたしは完璧な蹄鉄じゃあないとおもうけど

おふざけに夢中でヘマもする(エア)

蹄鉄にはどこか(サムウェア)駆けチャンス必要

この蹄鉄はただのスペアじゃないわ!

 

いつかわたしも見つけるわ

わたし自身のなにかを

それでわたしもなにかの役に立つ一部になれるの

一人ぼっちは終わり

この胸のうちのわたしの気持ちがもしも

誰かにとって何か意味があるものになるなら! ああどれほどわたしがみんなの中で役目を果たしたいか!

 

そう、わたしはただの二人目の娘

町のほとんど誰も気づきもしない

ボタンのように、蹄鉄のように

こういうたとえ話がニガテな女の子のように

 

わたしには魔法のひと触れなんてないかもしれないわ

かわりの才能だってないかもしれないわ

ただこの心には分かり合え(シェア)ないがあ

 

そう、わたしは跡継ぎ(エア)ないわ スペアじゃあない

『アナと雪の女王』から”We know better”(カットされたシーンの曲)歌詞翻訳

We know better 「そんなばかじゃない」 歌詞訳

 

まずタイトルの補足説明をいたします。

know better”は直訳で「より知っている」となります。がたぶん通例know betterだけで見る、ないし聞くより、「know better than to 動詞」という形で使われるフレーズで、「(動詞)をするほどばかじゃない」といった意味になります。

さらには、「You should know better than to 動詞」といった形になると、「あなたは(動詞)なんてするほど馬鹿じゃないわよね?」と言い聞かせるフレーズになり、これは特に子供をしつける際などによくあらわれる文句であるようにおもいます。

つまり、以下の歌詞を読んでいただければわかるのですが、やんちゃなエルサ(とアナ)はおそらく、お姫さまとして、周りの人々に「You should know better : そんなばかなことしちゃいけない」としつけられてきています。しかし、まさにそのフレーズを簒奪し、意味を逆転させて、わたしたちはそんな無味乾燥なしつけより「We know better : もっとよく物事をわかってる」と歌ってみせているわけです。

 

これは二人の子供時代、雪だるまを幸せに作っていたころの曲です。


We know better HD - YouTube

上動画、曲に、おそらく設定資料集(自分はまだ入手できておりません…)から、該当箇所のイラストを割り振ってあって、とてもよくわかりやすいです。

では以下歌詞です。

 

 

 

(赤ん坊(アナ)の泣き声)

エルサ:

こんにちはかわいい赤ちゃん わたしとおんなじお姫さまね

でもあなたはお姫さまってすごくすてきなものかもと思ってるかな

すぐにわかるけど、みんなあなたにたくさんのことを期待するのよ

お姫さまがやるべきこと、やっちゃいけないことってのがあるんだってみんな言うわ

(赤ちゃんの泣き声)…でもあなたとわたし、わたしたちは、もっとわかってる

 

エルサ:「…雪だるま作ろう…?」

 

アナとエルサ2人:(子供が「せっせっせーのよいよいよい」などの手遊びをやるときに決まった文句を早口で言う感じで、手を叩きあうような音が入っている)

1,2,3、いっしょに 拍手して指を弾いていっしょに

あなたとわたしいっしょに ひざ(ニーズ)もいっしょに 止まって(フリーズ)っしょ

上に下にいっしょに お姫さまのかんむりもいっしょに

いっつもいっしょに あなたとわたし!

 

エルサ:

お姫さまは魅力と気品にあふれてなくちゃってみんな言うわ

お姫さまは自分の居場所をいっつもわきまえてるって

お姫さまはピンクでフリフリのドレスを着るんだってみんな言うわ

お姫さまはゲラゲラ笑わないし鼻から牛乳を出さないって

お姫さまはおしとやかで お姫さまは優しくって

自分の意見はそっと静かにしておいて ばあやのお尻を凍らせたりなんてしないって

 

2人:でもあなたとわたし、わたしたち、わたしたちは、もっとわかってる

 

乳母:

まったくあなたたちはいっつも悪さばっかりして! お父様に言いつけますよ!

アナ:

なんでお姉ちゃんにはできてわたしには(魔法が)できないのかなあ

エルサ:

わかんないわ アナにもできたらいいんだけど…

 

アナ:お姫さまはむちゃめちゃ優しいんだってみんな言うの

エルサ:ケンカもしないし汗もかかないって

2人:食べるところもけっして見せないんだって!(ゲップ)

アナ:木登りしたり膝をポリポリかかないってみんな言うの

エルサ:お姫さまは先生の紅茶を凍らせたりもしないってみんな言うわ

アナ:おしとやかで

エルサ:感じがよくって

2人:パンツのこととか喋っちゃいけないって!

アナ:それに外の世界がどんなのかって思ったりもしないって…

 

2人:

でもあなたとわたし、わたしたちは自分たちのでっかい考えがあるの

いつかわたしたちが大きくなったらどうするかって

 

エルサ:わたしが女王になって

アナ:わたしはその右腕

エルサ:アナはついに旅に出るの

2人:国のぜんぶをまわって

アナ:みんなにお姉ちゃんのこと お姉ちゃんができる魔法のことを話すの

エルサ:やさしくみんなの面倒をみて、みんな好きになるわ

2人:あなたとわたしのことを

 

2人:

だれもわたしたちにお姫さまはどうすべきだなんて言えないわ

わたしたちが二人でいっしょにいるかぎり

あなたとわたしが

「『アナと雪の女王』、「Let it go」における、かき乱された性」翻訳

菅谷梨沙子さんがアナと雪の女王のLet it goを歌ったということに心動かされ、自分の心の中ですこし関連性のある英語記事を翻訳しました。
The Scrambled Sexuality of 'Frozen's "Let It Go" | Criticwire http://blogs.indiewire.com/criticwire/frozen-let-it-go-idina-menzel-demi-lovato#.UzxSv0yHHDB.twitter
とくに最後の箇所――髪を紫に染めた女の子に関するところです。
(個人的には、この記事は、エルサの「性」の問題とはじつに同性愛的な性指向なのだ、と感づいていながら、それをはっきりとは書かずに示唆にとどめておくことで、まずは10代女子に広く呼びかける感動的なよくできた記事になっているように思います。この映画がレズビアン、ゲイ映画であるという読解に関してはそのうち自分で書くかもしれません)

 

アナと雪の女王』、「Let it go」における、かき乱された性

 

 『アナと雪の女王』の前売り収入は、ポスターの通り、主役たちを埋め尽くしてしまうほどだ。愛らしい雪だるまのオラフが自分の頭を空中に突き出す一方で、女性主人公のアナは喉元まで雪に埋もれている。しかし、世界中で10億ドルを叩きだす大人気映画ではあるが、この映画には秘密がある。これは、女の子たちの映画なのだ。(この映画をダメにするやつが前方に見えるが、しかし、来たれ)

 

もちろん、この映画を愛する男の子たちもいるだろう――また大人の男性も同様に愛するのだろう――しかし、私は先週この映画の歌詞字幕版を観て理解したのだが、「雪だるま作ろう」とお願いする声は、女の子たちのものなのだ(彼女たちの父親のひとりが、彼の4歳の娘が学校に行っている間にこっそりとサウンドトラックに聴き入るということはあるだろうが――閑話休題)。ディズニー寓話の論理に沿えば、アナとエルサは映画のラストまでにそれぞれ彼女たちのロマンティックな恋人を見つけるのが正道だというのに、『アナと雪の女王』はその推進力にあらがってみせるのだ――いわば、彼女たちのお互いへの愛の側に立って。映画の大半の部分において、アナは自分の身を救うための「真実の愛の行為」を「真実の愛のキス」だと誤解してあくせくと行動する。イケメンのハンス王子や、とんま面の愛すべきクリストフが彼女との恋に落ちれば、それですべてが解決だというわけだ。ところが最後の瞬間になって、『アナと雪の女王』はその脚本をバチンとひっくり返し、アナに自分自身を救わせる。アナはただ受動的に愛を受ける女の子でなく、自ら行動的に愛を示して見せる存在なのだ。

 

そのほとんど普遍的な魅力にもかかわらず、『アナと雪の女王』は、疵をかかえた、時にはほとんど一貫性を欠いた映画であり、その根本的なテーマや、主人公たちのアイデンティティに関してさえも、深く混乱を抱えた映画なのだ。エルサの魔法の力が彼女の感情と関わっているものだとするなら――父親はエルサに「隠し通せ、感じるな」と言いおびやかす――ではなぜ、歌詞はなぜ彼女が「よい女の子(グッド・ガール)」でいなくてはならなかったということに何度も言及するのだろうか(悪い女の子だけがなにかを感じるとでもいうのだろうか)? 「手当が必要なやつ(fixer-upper)」に関してはどうなのだろう、あの恣意的なまでにアップビートな、愛が欠点に打ち勝つという頌歌は、どうして不調和にもサウンドトラックCDの真ん中に置かれているのだろう? そしてこの見せかけのミュージカルは、そのミュージカル形式をその最後の場面においてどうして放棄し、108分のうち23分しか音楽がないものになるのだろう?

 

アナと雪の女王』のこのような特異性の核に位置するのが、「Let it go」である。感情的な疎外について歌ったこのパワーハウスバラードは、その性質に似つかわしくないほどのポップ・ヒット曲となった。女優の歌、そしてそのシーンにアニメーションが付き、この箇所はエクスタシー的で、自由を得たようなものとなっている。「正しい、も、間違った、もない 私を縛るルールなどない 私は自由 (No right, no wrong, no rules for me -- I'm free)」しかし、彼女がその解放に払った代償はまた険しいものであった――彼女は自由に自分の感情を感じることができるようになったが、その感情を示せるのはただ自身にのみなのだ。

 

Let it go」にかかわる文脈として、デミ・ロバートがぴったりの事例を提供してくれる。前ディズニー・プリンセスであった彼女が、(――咳払い――)拒食症と格闘し、表舞台への登場へと打ち勝ってみせたのが、エルザの苦境と不気味なまでの符号の一致をみせる。リハビリの代わりに、あの氷の城があり、彼女はその中を満たすディティールを自分で決めることができるというわけだ。しかし、ロバートのファンたちが確かにその関係を見て取るにもかかわらず、ロバートの「Let it go」ポップヴァージョンには、劇中で女優が歌ったものにあったある炎が欠けている。

 

あなたがロバートに関してどう感じているかにかかわらず、42歳のブロードウェイの女神がシンプルなポップ・ソングをうまく伝えることができないなどということが嘘だと認めるなら、彼女のバージョンの「Let it go」が失敗したことには、ある甘美な正義があり、劇中のものの成功にもまた甘美な正義がある。しかしやはり、それにもかかわらず、「Let it go」には、何か原型的に思春期的なものがあり、まるで今にも泣き出しそうな目のティーンエイジャーが彼女の部屋に閉じこもり、ボリュームをひび割れるほど最大にして歌うために書かれた曲のようにおもわれるものがあるのだ。――「もう私が泣くところなど誰にも見せない(グスン)」( "You'll never see me cry [sniff]."

 

以下は、Slate誌のDana Stevensが先週書いたものである。彼女はエルザが「Let it go」の中盤、彼女自身の孤独の要塞を立ち上がらせながら見せる、観客を当惑させるほどの身体的な変化について書く。

曲の感情的なクライマックスにおいて、エルザが彼女の新たな氷の宮殿のバルコニーから日が昇るのを初めて観ようとする瞬間、彼女は突然まるで発作のように彼女の生き生きとした、解き放たれた力を表現し始める――魔法による模様替え、イメチェンを通して。「解き放て 解き放て あの完璧な女の子は死んだ」( "Let it go/ Let it go/ That perfect girl is gone,")と、彼女は自分の古い見た目(落ち着いた深緑のドレスに紫のマント、几帳面に三つ編みして巻き込まれた髪)を捨て去りながら宣言し、おそらくより「完璧」な女の子になる。彼女は日が昇るのを迎えるため、バルコニーへと気取って歩くのだが、そのシーンにおいてエルサは、体の線が出て、太ももにスリットが入り、透け透けの雪模様の裾がついたドレスを着て、白銀のハイヒールを履き、彼女の髪はばさばさと振りほどかれ、肩を交互に前に出して歩くのだ――微妙なニュアンスにおいて、しかし観間違えようもなく、挑発的なバッド・ガールの誘惑のそぶり。

 

エルサが「グッド・ガール」にならなくてはならないという必要性に抗うという箇所は、『アナと雪の女王』の歌の歌詞に何度か出てくる、それがあらすじには何の関係もないのにも関わらず。彼女にのしかかるものは、古風な人倫道徳の規則ではなく、父母をなくして妹と二人になってしまったことからの責任ではある(あと、まあたしかに、彼女が治めなくちゃならない国の)。しかし彼女にのしかかるものは、いちど「Let it go」が演じられると、そこに残された足跡を辿り、そしてまたロバート――エルサとは違い、明らかにそのだらしない公的生活に苦しみ、にもかかわらず彼女自身を厳しく閉じ込めていた女の子――とのかかわりを辿る。

 

民話において――『アナと雪の女王』が、(すごく、すごく)ゆるーーーく原作にしているアンデルセンの「雪の女王」のような民話において――は、魔法というものはしばしば性と結びつけられており、そして現代における民話の等価物においてもまたそうなのである。『Xメン』のミュータントたちは、典型的なまでに、彼らの超能力を思春期の始まりに見出し、スティーブン・キングの『キャリー』におけるキャリー・ホワイトも、彼女の狂信的なキリスト教原理主義者の母親のよい子ではない自分を、その思春期の初めに見出す。したがって、私は「Let it go」に性的な要素がある――たとえそれが最大限に除菌済みの姿で現されていようと――と指摘するのは間違いではないと信じる。しかし決定的なのは、エルサが、誰かのために自分の変身を遂げているわけではないというわけだ。彼女は男の子の気を引くために可愛いお洋服を着るわけではない。彼女は、自分が誰か、あるいは、自分がいまどんな人間になろうとしているのかを示すために、可愛いお洋服を着ているのだ。彼女は、やっと自分にピッタリ合うジーンズを、たぶん両親が望ましいと思うものよりほんの少しタイトなジーンズを見つけた十代の女の子なのだ。あるいは初めて自分の髪を紫色に染めてみた女の子なのだ(心配しないで――ちゃんと落とせるよ)。

 

 

ピクサーがディズニーと合併して初めて作った『メリダとおそろしの森』と同じく、『アナと雪の女王』は、ほとんど手で触れることができるほど確かに、合併相手がダイヤをちりばめられた完璧な女性像を幼い女の子に売り付け続けてきたという歴史と、時には不器用なまでに格闘している(私の娘が、映画が始まるまでの広告映像にいらいらし始めると、娘の友達が言う。「私がお姫さまの映画を観ようとするといつもこうなるのよね」)。ディズニーはまだお姫さまたちを捨て去ろうというのではないが、しかし彼らは明らかにその原型に変化の必要があることを理解しているのだし、また同様に、どのように変化させる必要があるのかも理解している。おそらくそれこそが理由で、『アナと雪の女王』は、あたかもランダムに色々な部分を取ってきたつぎはぎで脚本を作ったような、ごた混ぜになった映画となっているのだ(「えーっとぼく『レ・ミゼラブル』のオープニングちょっと好きなんだよね、あんな感じでここちょっとやってみよっか?」)。観客の子供たちは、もちろん、自分たちがイデオロギー上の対立劇のなかに放り込まれていることを理解しないだろうし、もしかしたら感じさえしないかもしれない。でも、子供たちにも、『アナと雪の女王』には、なにか違うところがあるとわかる。彼らも理解する。彼らがもうすこし大きくなったら。