マーク・トウェイン『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』

 今から100年以上前、1889年にマーク・トウェイン――あの『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒けん』の作家――が書いた小説、『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』は、なんと今話題の「異世界転生」モノの「なろう系小説」にそっくりの設定を持つお話です。

 ある日、19世紀末(トウェインにとっての現代)のアメリカで生活するぼく。ふと気づくいたら、なんと6世紀のイギリス、アーサー王宮殿に飛ばされちゃった! ええ~っ! 周りは脳筋の騎士ばかり! 魔術師のマーリンはイジワルだし! 頼れる武器は、自分が19世紀末から持ち込んだ科学技術の力だけ! ぼくはバカげた身分制度がキビシいこんな時代で、王様や騎士や魔術師と渡り合い、民主主義を達成することができるのか?!

 といった小説なんですね。実に、ある日気づいたらRPGの世界に飛ばされちゃっていた~!という最近ブームの物語とそっくりではありませんか。

 以下は、そんな小説についてあれこれ考えていたことです。

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アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』(A Connecticut Yankee in King Arthur’s Court )における民主主義と2つの機械(工場設備と視覚装置)

 

 『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』はある混乱を読者に与える。われわれは、19世紀から主人公のハンクによる、6世紀の厳しい身分制度封建制度への批判を素直に受け取るべきなのか? あるいは読者はハンクの語りと振る舞い(とりわけ最後にハンクが騎士たちをマシンガンで虐殺してしまって勝つことの過剰さ)を距離を取って見ることが求められており、批判すべきはハンクの側であると見るべきなのだろうか?

 しかしその混乱に決着をつける前に作品内の語りを素朴に読むだけで明らかなのは、六世紀の世界を民主主義化したいという欲望は、少なくともハンクにとっては疑いのないものであり、そして(虐殺の場面の以前から)教会の権力に敗北してはっきりと失敗したものとして描かれているということだ。

 ハンクは封建制や国教に囚われた国民が味わう不合理に対し、感情的にも、また合理的にも強く反発する。そして、制度を当然のように受け入れることによって眠らされた国民の中の人間性を目覚めさせるような教育への強い意思を持ち、また様々な制度改革に取り組んで、共和制の樹立に尽くす。しかし、教会が破門宣告を行ったとき、彼が味方しようとしていた国民たちは、自ら制度の羊となり、 「自分たちの価値のない生命と、自分たちの価値ある羊毛を、「正しい理由大義)」に差し出してしまう(offer their valueless lives and their valuable wool to the ‘righteous cause’ [427])」と、本来「価値」ある魂を貶め、まやかしの「理由」に屈して自らの価値を差し出す。このように、ハンクによる教育、啓蒙は失敗している。

 六世紀イギリスの封建制から国民が被る不合理は、十九世紀末のアメリカ北部人であるハンクにとっては当然許すことのできないものなのだが、国民への共感と怒りは作中でおおむね二つの形をとる。第一に、例えば非人道的な拷問を受ける男に対し、「この男の苦しみへの共感で、わたしの足じゅうの筋まで痛くなった(“the cords all down my legs were hurting in sympathy with that man’s pain”[153])」とハンクが語るとき、ここには合理的な法則を越えた[1]個人から個人への共感が見て取れる。ハンクはこの男と妻を、「無我夢中に働くだけの自動人形を、<人間>へと変えてやる(turn groping and grubbing automata into men”)」、彼の 「工場Factory」へと送ってあげることにする(157)。

 いやしかし、ここで、「自動人形」から「人間」性を呼び覚ます場所として大量生産的な「工場」が選ばれるのはいくぶん奇妙ではないだろうか。そもそも「人間工場(Man-factory [114])」という人間を工場で作るという名前が奇妙なわけだが、ここに入れられた男は例えば、「この男はたしかに一人の人間だ。彼のようなタイプがおおぜい後押ししてくれたら、わたしもこの国にちゃんと福祉を打ち立てられるだろうに(This one’s a man. If I were backed by enough of his sort, I would make a strike for the welfare of this country [112])」と語られていた。この延長線上に展開してゆくように見られるのが第二の反応である。ハンクはしばしば、六世紀の社会制度がいかに非合理的で、どのような改革が必要かという長広舌をふるう。そしてその際、上で「ひとりの人間(man)」 が 「彼のようなタイプ(his sort)」へと即座にスリップしたように、しばしば彼が共感を寄せる労働者階級の人間の個別性は消去され、社会的(とりわけ階級的)な「類型(タイプ)」がどのような仕組みで互いに関係し作動しているかをハンクは述べ立てる。

 しばしば自然主義文学は有機的な関係という発想を欠き、事物の分解と分類に終止する世界像を持つと言われる。この小説においてそのような特徴は、個々の「人間」が尊重し合うことで有機的に社会が構成されるという理想によって民主主義が目指されながら、その実現のために考えられる合理的な思考においては人間の個別性が消去され、機械論的な因果関係が類型を動かしてゆくという世界像のみが思考可能となる、というかたちで現れる。一対一の<原因効果>の関係cause-and-effectの総和としての(「大義」、「正しい理由」(righteous causeに基づく紛い物の法則を越えた)合理的思考は、いわば公衆を群衆へと変化させ、機械論的な思考の中で「人間」は類型の鋳型によって(再)生産される機械となる。

 ハンクによる啓蒙への意思は嘘ではないが、しかし個々人が社会を構成してゆく合議的な手続きに関する問題は、常に選挙制度の改革のあとへと先延ばしされており(制度を変えれば自動的に達成されるものであるかのように)、ここに彼がやがて国民の意思に裏切られることになる原因の一端を見ることができるのではないか。

 「人間工場(Man-factory」 に対応するように、一九世紀の金メッキ時代においては「ボス主義(bossism)」 と呼ばれる半ば腐敗した政治組織の制度が存在し[2]、ハンクが六世紀に得る称号と同じ「ザ・ボス (the boss)」と呼ばれる政治的リーダーが、票を買うようにして「政治機械 ((political) machine[3]」と呼ばれる集団をまとめ上げていた。このように、機械的な合理性は金銭、商業的なものととりわけ結びつき、ハンクの長広舌(封建社会の不合理に対してやはりまずは近代的で合理的なものと言わざるをえない)も産業、商業にまつわる語彙と発想に満ちている。ハンクが労働者の側に立つのは、彼らこそが「ちゃんと価値を産み出し、助けるにするuseful, or worth saving)」 であり、一方で特権階級は「何も生産しないunproductive」くせに国民を搾取して生きている、「理性が作りあげる世界においては、使いみちのない、どんな価値も持っていない(of no sort of use or value in any rationally constructed world)」 輩であるからだ (109-10)。「生産」の「価値」、使用価値によって人間を測定するという前提があり、この延長線上に人間と機械が等しくなる箇所が訪れる。

 例えば、ひたすらお辞儀する修行を続けている隠者の祈りの動作はハンクには「すばらしく使いみちのある機械の動き、ペダルの動きじゃないか(the most useful motions in mechanics, the pedal movement)」と見え、従ってハンクは彼に紐をくっつけて、「ミシンの機械(a sewing machine」の部品として組み込む(214)。折島正司はこのような箇所から、ハンクが「人間性」はどこにあるのかという問題に直面すると指摘する(折島 168-69)。とりわけ折島は類似性の問題においてこれを捉え、本物の物質とそれに類似した表象を区別できなくなるのは、例えば夢見ている人間は、それが夢だということを意識していないから没入してしまうのだというように、これは模造だという「メタ・メッセージ」の不在によるとする(173)[4]

 この機械と人間の「類似性」の問題に対し、産業(大量生産)の時代では、「等価性」において機械が人間のシニフィアンとなると論じるボードリヤールの議論を接合することは有益であろう。ボードリヤールによれば、ルネサンス以前の封建的な秩序によって身分の移動が厳しく制限されていた時代においては記号は厳密な透明性を持っており、記号と意味の結びつきが浮動することもなかった[5]のだが、ルネサンス以降、まずは類似性の原則を中心に、そして産業革命以後は等価性の原則を中心に記号が組織されるようになったという。産業革命による変化の例が、人間に対し類似性を持つ「自動人形」から、労働の生産性によって人間に成り代わる「ロボット(機械)」へ、という人間のコピー像の変化である。類似はその裏側で「幻影と現実との際立った相克をつねに前提としている」(ボードリヤール 128)が、大量生産によって生まれる商品同士の関係は「オリジナルとその模造品の関係でもなければ、アナロジーや反映の関係でもなく、等価性、つまり差異の消滅」(130)を意味しており、産業構造においては「機械は人間の等価物であり、一連の操作過程において、そうした等価物として人間を併合してしまう」(126)。上で、制度によって「自動人形」にされた男を、「工場」に入れることで「人間」化させるというハンクの振る舞いを見たが、そこではオリジナルの「人間」性とその偽物としての堕落した模造という類似性[6]に基づく記号の秩序と、人間としての正しい価値を取り戻させるという等価性に基づく記号の秩序が同居しており、その上でこの等価性に基づく記号秩序の中でこそ「人間」は「機械」と等号で結び付けられている。

 すでに述べたように、この機械的な人間像は、個から発して全体を構成する有機的な公衆にはならず、<原因効果cause-and-effect> 的な合理性によって一挙に操作する対象としての群衆へとしばしばズレ込んでしまう。その操作の一つが工場による「人間」の(再)生産であり、もう一つがハンクが「自分の性格の、サーカス的なところ(circus side of my nature [114])」と呼ぶ、(しばしば機械装置によって生産される)「効果(effect)によって直接群衆を操作する技術であろう。

しかしハンクのこの「効果」へのこだわりは、しばしば単純な生産性を越える過剰さを持つ。例えば聖なる泉の挿話において、ハンクが備え付けたポンプの「効率性effectiveness [224])」は正しく生産性を持つものだが、彼はポンプ以上に複雑な機械装置を用いて光による視覚的演出を行って群衆を驚かせる。「すごいもんだったよ! その効果は!(It was immense—that effect! [221])」と興奮混じりに語られるこのショウマンシップに満ちた「視覚効果」は、純粋な使用価値をまったく生産していない。日食や煙を魔法と見せかける――類似性に基づく記号によって透明な記号の時代の人間を欺く――素朴なハッタリだけでなく、泉の補修やマーリンの塔の爆破といった機械装置を用いたショウは何一つ物質的な価値を生産しないが、「うまいこと広告すれば、ちっぽけなものでもでっかいものになるもんだ(a small thing has been made large by the right kind of advertising [210-11])」と述べられるような広告的な価値を持つと言えるだろう。「見事な一枚ののような眺め(a good deal of a picture [57])」を作り出す「効果的な奇跡(effective miracle [59])によって大衆を直接操作した塔の爆破に先行し、ハンクは六世紀には絵画(a picture)が不在であることを嘆くのだが、そこで彼が懐かしんでいる絵画がそもそも保険会社が広告として配布する複製版画である(52-53)ように、ハンクにとって視覚的な体験は金メッキ時代の商業的な広告の体験に浸透されている。何一つ生産していない権力者たちを攻撃し、搾取される単純労働者を擁護するハンクの長広舌における近代的な論理と、何一つ生産せずに群衆を操作するハンクのショウマンシップの間には一見齟齬があるようにも見えるが、その齟齬は一九世紀における商業の構造に由来するものでもあると作品内に描き込まれているわけだ。

一九世紀後半には、ハンクのように光学的な機械を用いる視覚体験が商品となってもいたのだが、ロザリンド・クラウスはその体験においては光学的な模造を生み出す「視覚装置(optical machine)」 自体が「装置がそこにあるということを、そのメカニズムがどうなっているかを、常に思い出させる(an insistent reminder of its presence, of its mechanism」ものとして観客の視界に入るように設置されていたことに注目する(Krauss 58)。

 

イリュージョンを経験すると同時に、その経験を外側から見させるという二重の効果。これが、見せ物に魅せられた十九世紀後半の特徴であった。そこでは、視覚的なもの自体にというよりもむしろ、それを作り出す「視覚性効果」とでも呼べるものにとらわれていたのである。

This double effect, of both having the experience and watching oneself have it from outside, characterized the late nineteenth-century fascination with the spectacle in which there was produced a sense of being captured not so much by the visual itself as by what one could call the visuality-effect.(58)※この箇所の訳は『視覚論』(平凡社ライブラリー)を用い、太字強調は引用者による。

 

この「二重の効果(double effect」 から想起すべきは、ハンクのショウマンシップの中に存在する、六世紀の群衆に対するものと一九世紀の読者に対するものとの間でのズレではないだろうか。語られる作中世界において、六世紀の群衆に対するハンクは、自らが視覚効果を生み出す「 メカニズム(mechanism)」を隠蔽することでこそ、「すげえ! 魔法だ!」と思わせて効果をあげる。一方で、語りのレベルにおいては、ハンクはしばしば饒舌に、自分がいかにして装置を組み合わし創意工夫を行ってきたかという手の内を明かしてしまう[7]。読者はハンクが魔法への類似性を演出した「視覚的なものそれ自体(visual itself)」を見て、素朴にそれを魔法のようだと感じて喜ぶのではなく、ハンクが一連の技術を組み合わせてショウを発生させる手つき、そしてそれに騙される群衆を、ショウと同時に、しかし一定の距離を取って眺めることで「視覚性効果(visuality-effect)」に喜ぶ。

そこでは、類似性に基づく像に半ば意識的に騙されて楽しみ、また機械の生み出す偽の像が、しかしその偽性が問題にならない位相において現実の光景と等価な(視覚)効果を自分たちの中に生み出すという過程を楽しみながらも、同時に、そのように群衆(観衆)を操作する機械に対して半ばメタ的な立場にも立てていることによる喜びがあっただろう。産業構造の中、機械が人間に対する等価性によって人間性の価値を不安に晒したとき、その機械が古いモデルの記号秩序である類似性に基づく偽の像によって人間を騙す手つきを意識的に楽しんでみせることで、観客は類似性にも等価性にも回収されずに距離を置くことができる超越性としての人間性を、自らの内にいわば錯視する。六世紀人の頭越しにハンクが読者とのみ共有する饒舌は、その共犯関係によって自らが機械的な手つきによって群衆を操作しているのだという「メタ・メッセージ」を送る。この小説におけるハンクの振る舞いをアイロニカルに眺めることが要請されているとすれば、それは作品外の批評理論のみによるものではなく、ハンクの語り自体が要請するものでもあり、自ら過剰に一九世紀の論理に身を浸しながら六世紀に民主主義をもたらそうとして失敗する振る舞いにより、ハンクは一九世紀の民主主義における人間性の位置に疑問を投げかけつつその回復を夢見ている。

 

[1] 人の鹿を勝手に殺したとして証拠もなく拷問されているこの男は、しかし実際に鹿を殺していた、というこの箇所に始まり、ハンクはしばしば六世紀の法に照らしてのみならず一九世紀の法に照らしても犯罪者である人間に共感する。法制度の歪みの上で人間が人間らしい情を働かせた結果として犯罪がなされたのならば、犯罪者であっても共感し悪法を憎むというこの態度は、情と論理が拮抗したうえで情が優越しているものであるとも言えるし、悪法よりも合理的な真の法則が優越しているものだとも言える。

[2] Lane W. Lancasterは、コネチカットは極めて都市的な土地でありながら、そこで発展した “bossism” は小都市的あるいは農村的な構造によって成り立っていたと論じる。Lancasterはボス主義の成立に有利な条件として、政治的中心が明確な立法制度、独裁政治の傾向にある貴族的で差別的な伝統の残存、有権者が党や政府に直接意見を言う制度の不在、法的少数者の力の実質的な不在、対立陣営による報道の欠如、ボスによってもたらされる商業システムと統治が相対的に見て現在の環境に適し望ましいものであること、などを挙げており、これらはこの小説で描かれている社会状況とも符合する。

[3] ハンクは “Concentration of power in a political machine is bad; and an Established Church is only a political machine”(161)と述べてもいる。 “THE BOSS” と言えば自分ひとりを指すのだということをハンクが誇る箇所(69)は従って彼の語りを幾分アイロニカルに見るべきだと示唆されているのかもしれないが、国教会への権力の集中がつねに先行して存在している以上、彼が権力を自分に集中させる振る舞いもあくまで対抗的なものだと見ることもできるように思われる。

[4] 結末部においてまさに「夢」から覚めることができずにいるハンクの姿を考えるためにもこの議論は示唆的であるように思われる。

[5] 六世紀人の「信じやすさ」にハンクはしばしば触れ、とりわけ権威への盲従に関しては激しく怒るのだが、その信じやすさはこの記号の透明性に由来するだろう。例えばサンディが豚小屋を城だと見做すのは、両者の類似性によってでも等価性によってでもなく、極めて厳密な既存の解釈枠によってであり、彼女は当時の社会においては完全に “sane” である(190)。“It would be wasted time to try to argue her out of her delusion, it couldn’t be done; I must just humor it”(184)とハンクが述べる箇所からは、個人同士の議論による教育によって彼女を啓蒙することへの実質的な諦めが見て取れ、また小説の大部分を構成する滑稽さの感覚が少なくとも部分的にはその断念に由来するものであることがわかるだろう。

[6] さらに言えば、一九世紀の人間をオリジナルとし、そこから六世紀の人間に対して(家族間の情といった、価値の法則を越えた)類似性がいわば逆投射されるときに、ハンクは対象に人間性を見出しているように思われる。

[7] 例えば、31,32章における、ハンクが当時としては大金である4ドルを平然と払ってみせた、といったような挿話においては、六世紀の労働者たちに対して、自分がいかに出費を気にせず平然としているかという印象を苦心して作り出そうとするハンクの振る舞いを読者は語られることになる。ここにおいては、六世紀人がハンクにとって滑稽に見えるのと同様に、ハンクもまた読者に対して滑稽な見世物に見えてしまうはずだ。

 

引用文献

Krauss, Rosalind. “The Impulse to See.” Vison and Visuality . Ed. Hal Foster. Bay, 1998. 50-78.

Lancaster, L. W. “The Background of a State ‘Boss’ System.” American Journal of Sociology Vol. 35, No. 5. (Mar., 1930), 783-798.

Twain, Mark. A Connecticut Yankee in King Arthur's Court. U of California P, 2011.

フォスター、ハル編、榑沼範久訳『視覚論』 平凡社ライブラリー、2007年。

ボードリヤール、ジャン著、今村仁司塚原史訳『象徴交換と死』ちくま学芸文庫、1992年。

折島正司『機械の停止――アメリカ自然主義小説の運動/時間/知覚』松柏社、2000年。.